あの人に出会わなければ、今の自分はなかった。
あの出遇いのおかげで、今がある。
人と出会うのは不思議なことだ。
出会おうとして、出会えるのではなく、たまたま出遇う。
声が聞こえた。
本当に決定的な出遇いが、人間には起こる。
生死流転を六道輪廻ともいう。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。
これら六道の世界を迷い続ける。
死んでからのことではなく、生きている今もこの相がある。
しかし、人間である間でしか、仏法を聞くことはできない。
心が三悪道に堕ちているときは、決して聞くことができない。
苦しすぎるから。聞けない。
悲しみの底、本当の孤独において、弥陀如来の悲心招喚が聞こえる。
悲しみを、決して、悲しみのままで終わらせない。
汝の願いを成就させる。汝の願いと我の願いはひとつなり。
汝を必ず助ける。我が名を称えよ。
大悲はひとりひとりをみそなわし、喚び続けている。
決して諦めない。
そして、その人に出遇いが成就する。そのときを信の一念という。
真実に触れるのは、一念一刹那。握ってはいけない。執着してはいけない。
信の一念において、
凡夫が本当に凡夫になる。そして、如来をいつも忘れてもいい。
念佛のたびに、信の一念に立ち返る。
信心相続の相は、永久永続ではなく、連続無窮であると体解する。
何度でも、何度でも、いつでも、いつまでも、どこまでも続いていく。
これを摂取不捨と頂く。
それが如来の憶念の心。憶念の心が本願であり、選択本願の念佛、
本願の名号である。
そして、本願の名号は正定の業。
わたしの浄土往生は本願の名号が決する。
我が名を称えよの仰せをそのまま耳で聞いて、口でただ念佛す。
本願はいちにんいちにんの宿業の身において成就する。
そして、それは今、ここに存在するわたしを場として如来と出遇う。
そういう命をひとりひとりは生きている。
平等は凡夫という自覚において初めて実現する。
むなしさは心の悲鳴である。
このままでよいのか?わが身、わが心を問う本当の自己の声である。
その声に耳を傾けなければならない。往生はひとりひとりのしのぎである。
しかし、答えはいつもすぐそばにある。
専らお念佛の声を、お念佛のいわれを、
法蔵比丘の血肉を聞くしかない。自力は捨てるのではなく、廃るものだから。
本願とともに。なむあみだぶつ