あるか、ないか。
損か、得か。
好きか、嫌いか。
分別心には、二つしかない。二つしかないという事は堅いということ。
柔軟、寛容が欠落している。
自分の思いにそぐわないこと一切を許せないということ。
これが分別心、我執の心である。
残念ながら、世界は平等ではない。必ず偏頗がある。
持つ者、持たざる者。貧富。賢愚。
しかし、持たざる者の中には、それを選択して持たざる者と、
どうしても持てない者が存在している。
分別心では、後者、どうしても持てない者を認めることができない。
そして、自分自身がどうしても持てない、達成できない、
役に立てない、そういう者であることを容認、受け止める、受け入れることが
できない。
自分自身を最も差別し、軽蔑しているのは、誰でもない。自分の心だった。
孤独は外にあるのではなく、自分の心の中にのみある。
分別心はわが身の体質であり、これから逃れることができない。
如来のはたらきは、これをまかせよ、と仰り、
その自分から汝を助ける、と仰っている。
助けるとは、一体、何から助けると仰るのか。
何が最も自分自身を苦しめているのか?どこかに誰かがいて、それが原因なのか?
一つ一つ、確かめなければならないと思う。
自分が頂く真宗の教えとは、どうにもならない自分自身を、そのままじゃ、
我が名を称えよ、と仰っていて、それに頷き、ただ念佛する、ここに
如来の本願が成就すると体解している。
本当にたすけてくれと呼ぶのは、本当に、何ひとつ、間に合わないときに
初めて呼ぶ。そういうものだと思う。
本当に呼んでいるのか?念佛を利用しているだけではないか?
自身が問われてくる、そういうものが真の宗教だと思う。
本願とともに。なむあみだぶつ。