自分自身の感動を表白したものである、と聞く。
結論のようにずっと聞いていたなぁと思う。
よき人法然上人に出遇った歓び、本願念佛にたすけられた感動。
たすけられながらも、まったく変わることがない、自分自身の現実。
太陽と月。光と闇。讃嘆と悲歎。歓びと悲しみ。
二つの相が相反することなく、表裏一体として、表現されている。
これは藤谷先生のお言葉。
佛凡一体。機法一体。本願の名号、南無阿弥陀佛とは、
佛国土の名告りである。娑婆の言葉ではない。かるがゆえに、
浄土、如来の力を具足する。
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
極重悪人唯称佛(正信念仏偈)
極重の悪人とは誰のことか?他の誰のことでもない、ただわたし独りのことである。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞いちにんがためなりけり。
さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ(歎異抄)
罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします(歎異抄)
本願のかたじけなさよが讃嘆、佛。法の真実。
そくばくの業をもちける身にてありけるが悲嘆、機。
讃嘆と悲歎に身を通して、歩まれたのが親鸞という方だったと味わう。
だから、懐かしい、そういう気がするのかもしれない。
本願とともに。南無阿弥陀佛