むなしさとともに

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如来の御恩を仰ぐ

最も悲歎すべきことは、信じるよりも先に深く、深く信じている、

 

一切のものが根無し草のごとく、全く力を具足していないことである。

 

家族も、家も、金も、友も。そして、最大の問題は、比較分別心、差別心、

 

我さえよければよい、自是他非の心を自分自身が抱えていること。

 

自分自身からは、決して逃げることができない。

 

自分の本当の姿に対峙した時、とても、これと生きていくことができない。

 

とても耐え切れない。でも自分ではどうすることもできない。

 

考えても、考えても、探しても、探しても見つからない。堂々巡り。

 

決断は自己の問題。如来の本願にすがるか、それとも、わが身と

 

ともに生きるか?宗教的価値観は、出世間の価値観であるが、

 

それを完全に否定するわけではない。それはそれ。

 

しかし、それは本当に自分自身の灯火となりうるものではない。

 

自分を支え得るのは、如来の本願しかない。

 

これが仏法である。

 

わたしには、もはや本願に託す、念佛を聞くしか道が残されていません。

 

でも、それは自分の道ではなく、如来の本願が、ひらいてくださった、

 

念佛の大道、如来以外の一切は、関係ない。

 

それらは凡夫、われも彼もただの凡夫。

 

煩悩具足の凡夫火宅無常の世界は、

よろずのことみなもてそらごとたわごとまことあることなし。

ただ念佛のみぞまことにておわします(歎異抄

 

邪見驕慢悪衆生、煩悩具足、煩悩成就、雑毒虚仮、蛇蠍、貪。悪性。

 

懈怠。愚。悪見。われもかれも、ただひとなり。

 

自分は如来の如実の言、選択本願念佛を灯に専ら佛言に順ずる。

 

順ずるとは、頭を下げるということ。頭を下げるということは、

 

頭が下がるということ。頭が下がるということは、身に染みて実感し、

 

仰ぐこと。

 

もはやわれと同じただ人の言葉を信ずることはできない。

 

それは、浮き草根無し草。

風にゆられ、波にゆられ、ひっくり返って、朽ちてゆく。

 

寿命無量、光明無量。はかりなき命と光の佛。

 

わがために、身を捨てられし、御佛の本願を専ら聞く。

 

訳が分からないまま、まじめになれぬまま、何一つできないまま、

ただ念佛を聞き、ただ念佛を申す。

 

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃

 

如来は大悲である。摂取不捨は大慈悲、佛心である。

 

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

 

選択本願念佛とともに。南無阿弥陀