むなしさとともに

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忘れていたもの

このごろ気になることがありました。

 

それは、どうして言葉が届かないのか、ということ。

 

答えは目の前に、いや、身に寄り添っているのに、なぜ届かない?

 

あるいは、どうして自分は大事な人のことを受け止めてあげることができないのか?

 

なぜ理解してあげることができないのか?受け止めるつもりが、

 

なぜ否定にしかならないのか?

 

ずっと考えていました。

 

答えは、たぶん、自分が凡夫の身を抱えているから、だと思います。

 

ある先生は仰っています。

 

わたしたちは、いつからか、自分が、人間は迷いの存在である、ということを

見失ってしまった、と。

 

人間に生まれたということは、悲しみの存在として生まれたということ。

 

そして、本当に何を求めているのか、何をなせば満たされるのか、さえ、

本当はわからないのだ、と。

 

自分は煩悩具足、煩悩成就、蛇蠍、悪性、虚仮不実、罪悪生死、久しく沈めるもの、

流転輪廻のきわがない、生死の苦海におり、そこにはほとりがない。

 

こう見出されている者だということを、見失っている。

 

だから、なぜ届かないんや、どうしたらいいんや、という心が止まない。

 

これは奢りである。できるはずがない、届くはずがないじゃないか。

 

では、自分にはどんな意味があるのか?というと、

 

十方の衆生よ、迷いの凡夫よ、と如来によって見出された者であり、

 

本願すなわち、乃至十念若不生者不取正覚、どうかわが願いを

 

聞いてくれ、どうか我が名を称えてくれ、たすけさせてくれ、

 

と喚び続け、待ち続けられていた者である、ということだと体解する。

 

如来の本願、すなわち念佛には、血が通っている。脈を打っている。

 

わたしが、何も期待せず、何も当てにしなくても、喚び続け、待ち続けていた。

 

そして、その願いが成就した。どこに。

 

迷い続け、沈み続け、わけのわからないことをし続ける、私に、

我が身に。ここが如来のはたらく土俵だ。ここが出遇う場、ここが

自分の居場所だ。

 

これでよかった。これが如来の本願だ。

 

南無阿弥陀