人はよいと思うことしかしない。
地獄とは、堕ちるものではなくて、人間ははじめから既に地獄に堕ちている。
地獄に堕ちているとは、地獄をはらんでいるというか、具足というか、
それから逃れられないということ。
それが各々の縁にもよおされて露わになる。その地獄とは、孤独である。
ただし、孤独を苦悩と感じ難い。各々は色々な関係を持って生きているゆえに。
ただ生きる→よりよく生きるの答えではなくて、
なぜ今、にんげんとして、此処に存在しているのか?
生きること、存在することが否定される状態に陥ったとき、
それに応えうるのが、浄土真宗である。
それは、久遠の過去、現在、悠久の未来のどの時代、どの人をもえらばず、
へだてず、一切を貫くものである。
聞いてもどうにもらない。でも聞かねばならない。
それが自分にとっての真宗。
不安は、どこかにあるのではなく、自分が生みだすもの。
それは、どうしたらいいんや、どっちがいいんやという計らいの心。
そういう自分を拝み、佛を足蹴にする。それが佛智疑惑の罪。
自分には佛を信じる心も、憑む心もない。ただ称えよの仰せをただ聞くばかり。
本願とともに。南無阿弥陀佛