むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

ただ称えよの仰せ

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり

 

親鸞聖人のご和讃です。

 

本願の目当ては苦悩の有情です。

自分の思いに、他者に、世界に、がんじがらめになって、身動きが

とれず、いつもどうしたらいいんやと思い詰めのもののことです。

 

回向とは、差し向ける、如来の方から苦悩の有情に差し向ける。

苦悩の有情から差し向けるものではない。わたしには用事がない。

 

如来の大悲は、決して捨てない。追いかけ、抱きしめ、決して離さない。

一つになる。それを摂取不捨という。

 

訳の分からない者、助からぬものよ。

 

だから、汝を捨てれないのだ、と仰る。

 

詰んでいるとは、自分自身の思い、身、一切のことが決して末とおらないこと。

折れる。腐る。朽ち果てる。ひっくりかえる。継続できない。心変わりする。

成就しない。決定しない。色あせ、移り変わり、壊れて、消えていく。

 

そんなことは真実とはいわない。仮に過ぎない。因縁の和合により、

成り立っているだけで、根本がない。吹けば風に飛ばされる。

 

真実とは、三世十方、十方衆生を貫き、照らし、育み、いつくしむもの。

それを無碍光如来といい、浄土といい、光明無量、寿命無量という。

無限、永遠、はかりなきいのちと光の佛。色も無く形もましまさず。

法性法身。無上佛。それが弥陀の誓願。願いが願いどおりに成就する力をもった。

 

 

穢土を離れて浄土があるのではなく、穢土を穢土と知らしめて、

穢土に居ざるを得ない自分を受け止めさせ、歩ませしむる大きな力。

それが大悲、真実だと体解する。

 

そして、十方の衆生よ、ただ我が名を称えよ、必ず助けるの仰せを

聞いて、ただ称える。くちになむあみだぶつと。

 

如来如来として立ち上がり、凡夫は凡夫として、本願によって、

十方の衆生よ、と見出された者であったことに目覚める。

 

目覚めしむるはたらきを、智慧の念佛という。

わけのわからないものは、わけがわからないまま、

ただ称えよの如来の仰せに従い、ただ念佛す。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、これがよきひとの仰せ。

よき人の仰せに従い、ただ念佛す。それがそのまま弥陀に帰命すること。

僕らには、如来を思うことも、託すことも、任せることもできない。そもそも

そういう力がないとすでに見抜かれている。それを如来の五劫思惟という。

そこまでのご親切。ただあごを下に動かすだけの苦労で、永遠と出遇う。

本当にご親切な方だ。

 

本願とともに。南無阿弥陀