このブログを始めてからちょうど一年が経ちました。
また、自分を取り戻してからは一年半が経ちました。
この間、沢山の人に出会い、沢山のことを教わってきました。
それが世間で生きることにおいて、役に立つかどうかは、わかりません。
ただ、本当に自分を生きた一年間、一年半だったと云える日々をすごしました。
あぁ、生きたなぁと思うのです。
むなしさや孤独、そして不安は今も埋まりません。
また、自分の後生もわかりません。
今は、ただ我が名を称えよ、の仰せを聞いて、ただ口になんまんだぶと
お念佛を申す、このこと一つ、本願の名号に支えられています。
浄土真宗は、存在を支える教えであります。自分を取り戻す佛道であります。
在家の佛道であります。在家の佛道とは、出家の佛道を包含しています。
ただ念佛の教えは生きるに生きれない、存在できない、苦しくて、寂しくて
仕方のないもの、それを十方衆生とおっしゃり、そのものを目当てに
建てられた、無上殊勝の願い、誓願であります。
ただ称えよ、必ず浄土に生まれさせる。
この仰せを聞いて、ただ念佛申す。
その念佛は本願力回向の念佛であり、一声も称えることはできない。
全て本願、乃至十念の誓願から言葉となり、声とまでなった名号です。
本願名号正定業。本願の名号がわたしの、十方衆生の浄土往生を決する。
わたしが介在する余地がない。如来のひとりばたらき。
仰せに従い、ただ念佛す。それが自分を本当に生き切る道、
如来の智慧によって、選択された、如来からわたしに届けられた道であります。
いつまで続けるかはわかりませんが、自分を確かめていくために、ただ
本願を讃嘆していきたい、今はこう思っています。
思うとか思わないとか、分かるとか分からないとか、わたしのほうには関係がない。
ただ本願の名号が往生を決する。往生とは終わりなき歩みのこと。
往生にははじまりと遂げられるときがある、往生には幅がある。
即得往生住不退転、即ちとは、今、ここで。
本願の名号の声がわが身に響いたとき、浄土往生が始まる。
往生は必ず遂げられる。不退転の身に摂取されるが故に。
本願は寿命無量、光明無限に裏打ちされた力である。
故に、退転あることなし。専修念佛一行。
ただ生きて、ただ死ねばいい。行き先はわからないが、ただ生まれさせるの
仰せに従えばいい。ただそれだけ。如来は欲生我国と仰っている。
本願とともに。南無阿弥陀佛