この身、今生において度せずんばさらにいずれの生においてか、
この身を度せん。
度す、と云う言葉の意味には、此岸から彼岸に至る、という意味があると
聞いております。
このことの意味を、生死出づべき道と頂きます。
そして、生死出づべき道とは、今、わたしが存在する世界を捨てて、
西方浄土へ往生するのではなくて、
今、わたしが存在するこの世界のわが身において、
本当に自分を生きた、自分を回復した、本来の自分を取り戻した。
また、念佛ひとつに支えられ、あるがままに念佛申す。
本当にわが身を生き切るということが、生死出づべき道であると体解します。
わが身は如来から賜った、わたしの場所です。わが宿業を通して、
如来は如来としてはたらき、衆生すなわちわたしはわたしとなります。
自分に与えられた唯一の行はすなわち念佛一つ。本願の名号のみ。
たとえそれができなくても、我が名を称えよの仰せ。
仰せとは、寿命無量光明無量、はかりなきいのちとひかりの如来の喚びかけ。
本願即阿弥陀如来。阿弥陀如来即無量光明土。無量光明土即念佛。
教法即善知識。善知識即本願。本願即往相。往相即還相。還相即善知識。
大悲即本願。
出所はすべて本願。如来まします。そのことが本当ににんげんという
存在を根底から支える事実であると体解します。
少なくてもわたしにおいては、このことが真の灯明であります。
このこと一つにおいて、今を一歩一歩歩むことができます。
笑うことができますし、涙を流すことができます。
信は願より生ずれば 念佛成仏自然なり
自然はすなわち報土なり 証大涅槃うたがわず(高僧和讃 善導大師)
このご和讃がとても有難く頂ける、報恩講の今日この頃です。
本願とともに。南無阿弥陀佛