真如法性とは、決して曇りなき青天のことをいうのではないと思う。
雲があっても、雨が降っても、嵐の日でも。
青天の日も、雪の日も、春のうららかな日も。
夏の照りつける日差しも。秋の夕暮れも。
そのありのままの姿が真如法性。足すことも減らすこともいらない。
そのままの姿。それをそのままという。このままかな、そのままかな、という
思いが入ったら、そのままではない。そのままはそのまま。
思いがわくなら、思いがわくままに。往生一定と思うなら、思えばいいし、
往生不定と思うならそう思ってもいいし。
助かるとか助からないとか、いうならそれもいい。わたしに付属するもの、
一切、さしおく。さしおくとは、相手にしない。ほったらかし。
どう思おうが、どう感じようが、知らん。そういうことはどうでもいい。
そのまま救う、引き受けるの喚び声を聞いて、ただ随順する。
南無阿弥陀佛は、決して捨てぬの弥陀の喚び声。ただそれに応える。
ただ口になむあみだぶつと。声に出だせば耳に聞こえる。骨に響く。
まかせる、ということは、一度まかせたらもう文句を言わんことや。
煮るなり焼くなり、好きにせい。わしはあなたにまかせたんや。
まかせる、とはこういうことや、と日常を通して教えて頂きました。
教えられ、助けられ、育てられ。念佛者は常に育ち盛り。どこまでも、
歩み続け、どこまでも深められ続ける。
終わりなき歩み、それが無碍の一道。
往生は一時点のことを指すのではない。
往生とは始まりがあり、そして遂げられるものである。
先生から聞かせて頂いている言葉です。
成佛ではなく、往生がわれらの課題である。往生とは死ぬことではない。
今、生まれることだ。生まれ続け、生まれ続け、歩み続け、歩み続ける。
それが往生だ。今往生は始まっている。そして、必ず遂げられる。
本願とともに。南無阿弥陀佛