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むなしさとともに

徒然なるままに、真宗の味わいを書いていきたいと思います。不快な方は、予めご遠慮ください。

誰が為の本願か

如来の作願をたずぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて

大悲心をば成就せり(正像末和讃

 

罪悪甚深煩悩熾盛の衆生をたすけんが為の願にてまします(歎異抄第一条)

 

なぜ如来は我が名を称えるばかりで、必ず助けると仰るのか?

 

なぜ法蔵比丘は自分自身を捨ててまで、汝を助けずんばおかないと仰るのか?

 

 

苦悩の有情とは、老病死を含んで生まれざるを得なかったわたくしである。

 

川上が完全に汚染されているならば、川下も汚染される。

 

わが身とは川上ではない。川下である。目に見えるほど。そして、これさえ

どうすることもできない。心も体も自由ではない。自分の思いに縛られ、

これがよいか、あちらがよいかとふらふらして、迷う。

 

迷いを重ねるうちに、いよいよ重ねる、仏法の罪が甚だ深い。

それが罪であるとも思えない。

 

そして、自分は自分が一体なにものであるか?いつ生まれたのか?

何をすべきなのかも全く分からない。大切なことが何一つ分からない。

これを無明という。根本の無知。

 

煩悩具足。煩悩成就。煩悩熾盛。罪悪甚深。これらはもう抜けることができない。

常にそこに沈んでおる、そういう響きがある。

 

常没の凡愚。これが実相。そして、いのちを終え、また生まれていく。

これを流転という。

 

だからこそ、汝を決して捨てない。

 

だからこそ、汝を助ける。

 

罪悪甚深煩悩熾盛の衆生をたすけん。これが本願の生起でありましょう。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、とよき人の仰せをこうぶりて

 

信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二条)

 

何も分からないまま、ただ、よきひとの仰せをそのまま聞いて、

 

ただ念佛を申す。念佛を申せば、耳に聞こえる。

 

その一声は法蔵比丘の血、汗、涙から生まれた声である。

 

われらは退転する。されど、法蔵の願心は不退。

 

法蔵の願心が念佛往生を遂げていく。

 

南無阿弥陀