死にたくはないが、どうしても生きねばならない理由はない。
難儀は嫌だが、それは避けられない。自分のこれまでがもたらしたものだから。
宿業や一生造悪、極重悪人という言葉は、誰かに用いてよい言葉ではない。
自分が『自分自身』にしか、用いることを許されない言葉である。
決して他者に言う言葉ではない。
この身には、限りがある。しかし、遇うべきものに今遇うことを得た。
だから、果てるなら果てよ。苦しみ、もがかざるを得ないなら、
それも引き受けよう。これが最後生なのだから。
嬉しかろうがなむあみだぶつ。悲しかろうがなむあみだぶつ。
なむあみだぶつをただ称え、ただ聞く。それはすがたかたちなき大悲が
あえて形をあらわしたすがた。それを称え聞くのは大悲にふれること。
南無阿弥陀佛は変わらない。
念佛を申す身に仕上げられたことがもったいない。
手が合わさるのが不思議だ。念佛を申す心など微塵もないが、合掌し、
歩くときも、眠るときも、洗濯を干すときも、風呂に入るときも、
ただ念佛を聞く。それ以外に何もいらない。十分すぎるほど与えられている。
往生一定もわが思い。往生不定もわが思い。わが思いに用事なし。
ただ念佛を聞く。
唯信仏語 決定依行(愚禿鈔)
南無阿弥陀佛