最近思うのは、自分は全く何も知らないし、分からない。
根本的に分かってあげる力がない、ということである。
誰かのことをわかってあげることができない、受け止めることが
できないということは、自分も受け止められることがない、ということになる。
自分ができないのに、それを他者へ求めるのは虫が良すぎる。
しかし、結論は出ている。人間が人間を救うことはできない。
なぜなら、有限存在であるから。有限に有限を救うことはできない。
有限は無限、はかりなきいのちとひかりに出遇うことで本来の自分を
取り戻すのである。これは自分が身を以って体解せしめられたこと。
頭で考えたり、理解したこととは別の次元である。
疑いや否定を一寸微塵も許さない。
これを如来ともいい、真実ともいい、本願ともいい、念佛ともいう。
でも、分からない。この寂しいというのは、自分の思いかもしれないが、
自分の思いではないような気もする。すると、この思いは、
法蔵比丘の思いかもしれないと思う。確信はない、でも、自分よりも
もっと深いところから静かに湧き続けるような、思いのような。
でも、こうも思う。
全くそれが実現できないけれど、だからこそ、諦めきれない。
何とか互いに分かり合いたい、受け止めてあげたいし、受け止めてもらいたい、
と思うのかもしれない。だからこそ、耳を澄まし、目を凝らすのではないか。
寂しさややりきれなさを感じつつ、それを忘れては、思い返し、また忘れる。
そんな日々を繰り返している。
人間は悲しい存在であるが、人間は『如来に出遇う可能性』を秘めた
唯一の境遇でもあるといえるのではないか。人身受け難し。
いつまでも万劫の仇に騙されずに、本当に自分が存在する意味に
どうか出遇ってほしい。万劫の仇とは、自分の心と自分の身である。
南無阿弥陀佛