即とはそのまま、ということだと思う。
八地以上の菩薩はこの境地を実現するという。
七地と八地の間にも断絶があるらしい。
藤谷先生はよくお話や書物の中で、七地沈空の難ということを
仰っている。
自分は浄土の三部経のお心を尋ねるために、多角的に、
色々なお経を頂くべきだと思っている。
もちろん素人がお経の文字の語彙や意味を正確に読み取ることは
できない。そういうことをするつもりもない。
何をせねばならないかというと、その言葉を通して、如来の
お心に耳を傾けるということである。
実相を止観する、ということかどうか分からないけれども、
出だすということは、無限の大悲を頂戴するという事だと思う。
誰がための本願か、誰がための念佛か。
親鸞聖人いちにんがため、はいちいちの衆生、わたしいちにんがために
ご苦労をかけましたなぁということ。
その無限の大悲の喚び声を南無阿弥陀佛という、と聞いている。
この一声がタスケルタスケルの仰せ。
助からぬ汝を必ず我が国に往生させる、の如来の仰せ。
この一声を聞く。
唯信佛語 決定依行(愚禿鈔)のお言葉を繰り返し巻き返し反芻している。
念佛を聞く、聞名の行のほかに、真にすべきことなし。専ら大行を聞く。