むなしさとともに

徒然なるままに。自分のために、そして、いつか如来に出遇う誰かのために。

ひたすら聞く、教えを請う

お念佛は聞きものです。称えるということは、そのまま聞くこと。

 

尊敬する先生がよく仰ることであります。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの

仰せをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり(歎異抄第二章)

 

この言葉が真実であることを、本当に伝えたい、本当に味わってほしい人に

全く伝わらない。自分の思い、すなわち無明からくる邪見驕慢の心に

縛られて、本願のお心が届かない。これが現実であり、

この現実に潰されそうになる。ニヒリズム、無力感。

 

信楽まことにときいたり、と仰るように「とき」が至らなければ、

衆生に念佛の信心は発起しない。

 

 

ならば、自分はどうするべきだろうか?

 

汝、我が名を称えよ。タスケルデタノメ。

 

やはり如来の仰せに信順ずる外に道なし。

 

自分が他人に伝えられると思っているのが、自分の現実なのだろう。

 

自分の力を過信する自力の執心は本当に根強い。

 

人の身でできることは限られている。末徹ることが一つもできない。

相手を受け止めることも、自分の身を捨ててでも念佛申させることも

できない。

 

だから、今は専ら念佛の心を聞く。教えを渇望する。自信教人信とは

仰られるが、自分には自信しかない。

 

自分が専ら念佛を聞く、この一行をたもって、力なくして娑婆の縁尽きるとき、

 

本当の自由と平等が実現する。それを二十二願で誓っておられる。

 

果たし遂げずば、正覚を取らじとまで仰ってくださった。

 

そして、今この自分とともにまします如来を信じ、念佛を申す。

 

他人は知らない。言うならば何とでも言え。専ら如来の教えを聞く。

 

人間の分限、身の程を知れば、自然と如来に頭が下がる。

 

我らは限りある身を生きている。一切のものとのつながりの中で

いのちをたもっている。それが自分である。固定普遍的な自己などない。

 

そのことに醒めることを信心という。それは如来の仰せをそのまま

 

聞いていることである。

 

そのままとは、如来の仕事に手を出さぬこと。清沢先生のお言葉だったろうか。

 

如来の土俵は訳の分からぬ我が身我が心、すなわち宿業である。

 

如来は自らがはたらく場を求めている。

場とは機であり、場所がなければはたらきようがない。

 

 

南無阿弥陀