安田理深先生のお話(浄土の教学:東本願寺出版のCD)の中に
「大乗の魂」と云う言葉があった。
この言葉を自分なりに味わうことは、
あなたが助からなければ、私も助かりません、ということ。
すなわちいのちのともがらが、浄土に往生しない限り、
自分も決して佛にはなりません、ということだと思う。
声聞、縁覚という二乗は、自らの覚り(空・縁起)に止まって、
本当に断ずべき煩悩を断じていない。
すなわち無明住地を指す。これ聖徳太子の教えに依る。
大乗の菩薩は自らの成仏をさしおき、もっぱら十方衆生とともに
流転することを選ぶ。あえて流れていく。
この心、知進守退と感ず。
二乗は菩薩の死である。自分ひとりの救済などそんなちんけなものが、
如来のお心ではない。どんなものも立派にしてやりたい。
自由と平等を実現したい。これが無限大悲、如来本願の心だと思う。
泣き、悩み、苦しみ、虐げられている者がひとりでもいるのならば、
自分のようなものは、畜生に生まれてでも、それに寄り添い、
ともに悩み、ともに食べられるべきではないか。
一切のいきとしいけるともがらが成仏するまで、流転し続ける。
あえて流転する。大乗の魂とはこういうものである。
どこまでも、どこまでも深く、どこまでも、どこまでも高く。
これは諸佛菩薩、生活、人間、畜生から教わったことである。
決してひとところに止まらない。あえて流れ、あえて変わり続ける。
その底には決して変わらぬ如来の大悲が流れている。
それを大乗の魂という。
南無阿弥陀佛