むなしい、という感情は静かだが、執拗に流れてくるもので、
何の意味があるのか?ということを突きつけてくる。
そして、それに負けて中々行動、実行することができない。
それは、昔も今も同じなわけで。
たとえ如来に出遇ったとしても、それは決してなくならない。
何度でも出てくる。
しかし、本当は問題ではない。けれども、やっぱり身と心があるので、
むなしさにのまれそうになる。たとえ本当は幻であるとしても。
むなしさは、なくなりもしないし、逃げることもできない。
どうすればいいのだろう。
実相を観察する、如実知見。止観。凝視する。目を逸らさない。
おそらく、これしかないのだろう。
『むなしさとともに』とはいっても、中々本当に難しい。
むなしさの根源は無明であっても、現実の身を生きるものとしては、
ニヒリズムは、とても厄介である。
この身この心のままお念佛を申す。
諸佛善知識、先達の教えを拝読する。
静かに、目を逸らさずに、むなしさを見つめたい。
この先に何があるのだろう。
南無阿弥陀佛