むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

法蔵の願心

縁起の法とは、因縁が和合して、結果となる、と聞いている。

 

退転退屈、無常敗壊とは、因縁がほどけることだと味わう。

 

一切は因縁の和合に依って成立しているため、それが

 

保たれている間は、確かにある、存在する。

 

しかし、それがほどけると、姿形が変わってしまう。

 

変移していく。一つとしてとどまることはない。

 

その人の肉体は原子になり、また移り変わっていく。

 

因縁自体に善悪はなく、ただそのように流れ続ける。

 

不可逆的に。時間はさかのぼることはできない。

 

そこに善悪を介在させ、自分の認識し選択する善に執着する。

 

善に執着すれば、自分の選択以外の者は、悪になる。悪を憎む。

 

本来因縁に善悪はない。出来事に善悪はない。

 

しかし、感情をもっている我々の心は執着心が本体であるといえるほど、

 

その根は深く、それを取り除くことはできない。

 

だからこそ、如来が助けると仰るのである。

 

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして

 

回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃

 

如来の本願は誰を目当てに建立されたのか?正しく、その目当ては

 

苦悩の有情である。苦悩に沈む者を助けんと思し召したちける、本願の

 

かたじけなさよ、と親鸞聖人はご述懐なされた。

 

佛願の生起本末を聞きて、疑心あることなし、本当に如来の御心が

 

届いたならば、本願に対しては、もはや文句は言えなくなるであろう。

 

煩悩はなくならない。しかし、その根源たる無明住地を破り、必ず

 

我が国に生まれさせると仰った、その法蔵比丘の願心を信頼する。

 

その願心を告げ知らせるのが、一声の念佛。

 

如来は三世十方を超えて、常住である。無限大悲に果てはない。

 

どこまでも深く、どこまでも広く、どこまでもともにまします。

 

南無阿弥陀

 

 

 171219追記

 

聴聞をさせて頂く中で、法蔵比丘の話をされる先生は少ない。

法蔵比丘こそ、まことの友である。不請の友というお言葉が無量寿経にある。

 

我、決して汝を捨てること、あることなし。

 

この一心が言葉となってまで、今ここまで

来てくださる。それが一声の念佛である。

法蔵比丘の御心を頂けば、もう文句は言えないのである。

文句を言うのは、骨折りを頂いていないからである。

だから聞け、聞くばかりである、と善知識は仰るのである。

 

しかし、善知識については、吟味しなければならない。

 

まず自分を善知識である、というような者は善知識ではない、ということ。

 

そして、その者の日ごろの行い、言葉が門徒に、有縁の人に対して、

裏表のないまっすぐなものであるかどうか。

 

そして、見栄や虚構で飾っていないか?必要以上の設備を用いていないか。

 

これらを基に凝視してほしい。虚偽が映るだろうから。

 

もうひとつあった。

 

念佛往生を説いており、かつ専修念佛の人かどうか。

 

聴聞は場所は必要だが、お座と法を説いてくれる先生、そして、

同行がいれば、そこはすでに聞法の場なのである。

 

おして言えば、一声の念佛が聞こえる場所、オフィスかもしれないし、

公園かもしれないし、トイレかもしれない。

そこが聞法の場なのである。念佛は如来の直説法である。

 

後生はひとりひとりのしのぎ。何を選ぶかは自分が決めなければならない。

 

 自分の人生が本願念佛を証する道場なのである。