むなしさとともに

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追悼の意を込めて

ご縁のある方がお亡くなりになった。

 

それをご縁に思い浮かぶことを残しておきたい。

 

弔事に際して、ことばを捜したが、最中も、そして今も、結局ことばが

 

見つからなくて、ただ、ありがとうございました、と、それだけしか浮かばない。

 

そして、不思議と、笑っている表情だけが頭に浮かぶ。これは何だろう。

 

ずいぶんお会いしていなくて、2年半くらい前に別れて以来、

 

こちらから連絡をとることもなく、風の便りで、具合が悪い、ということを

 

伺っていた。

 

なぜ、こちらから足を運ぶことがなかったかというと、結局、自分は

 

その人と縁のあった場所を捨てた、捨てるしか道がなかった、だから、

 

今更どのような顔をして会えばいいのか、分からなかったのだ。

 

ただ、病中の写真等を拝見し、本当に大変だったろうな、と思うし、

 

こうなられても、家族や職場を大事にし、責任を果たし、笑顔で日々を

 

すごされたことを、いくばくか感じた。

 

人は生きている限り、

死んでしまう、ということは必ず訪れる。

 

これは避けようがない。

 

しかし、どうしても自分が死ぬと思えない。香山院龍温師の著書に依ると、

 

これを『業障』というそうだ。どうしても、思えない。それほど、

 

自分をたのんでいる。信じきっている。根拠がないのにも関わらず。

 

諸行無常ということは、滅ぶというよりは、変移していく、移り変わっていく、

 

ということで、決してとどまることができない。

 

むしろ、移り変わっていくことが自然であり、留まるということは不自然である。

 

しかし、自分自身は、業障によりどうしても変わることができない、ということと、

 

自我自体が変わりたくない、ということがあるように思う。

 

最後のお別れで、お顔を拝見したとき、心なしか安堵されているような

 

そんなお顔だった。表情筋が緩んでいただけかもしれない。でも、そう思えた。

 

死ぬということは生まれるということ。今、生きているということは、

 

生まれた、ということ。

 

どうして生まれてしまったのか?なんでこんなところに居るのか?

 

まるで意味が分からない。どうして、周りの人はこういうことを考えないのだろう?

 

そして、この身が滅びた後、自分はどうなるのか?

 

これを古来、後生の一大事、と表現されてきたのだろう、と思う。

 

正定聚不退の位に定まる、と仰られるのは、自分自身に確かな方向性が

 

授けられること。それは、生きているうちに、『念佛』に出遇うことで、

 

その人に起ち上がってくる。これを『信心』という。そして、身が滅ぶまでの

 

道程を『往生』という。往生は一時点ではない、

 

幅のあるものであり、往生は必ず遂げられる。これを『必至滅度』という。

 

すべては如来のおはたらきに依る。これを『他力』といい、『利他力』という。

 

どういう人生をすごすかは、人それぞれの縁に依るのだろう。

 

しかし、いつまでも楽しいこと、喜びでおさえられるほど、この人間という

 

いのちは、簡単なものではない。

 

むなしさは、人生それでいいのか?と自身に静かに、深く、そして、鋭く、

問いを突きつける。

 

むなしさを決してごまかしてはならない。

 

それは深い深いところから起こってくるはたらきである。

 

たまたま念佛の信を獲れば、遠く宿縁を慶べ、と親鸞聖人は仰った。

 

彼はどこへ行ってしまったか、今の境界では分からないが、

 

倶会一処という言葉が、浄土真宗にはある。

 

いつか恩返しができるように。ありがとうございました。

 

さようなら、いつかまた。

 

 

このブログをもし見ておられたら、どうぞ、たった一声でも構いません。

 

なむあみだぶつ、とお念佛を申して下さい。

 

南無阿弥陀

 

煩悩は大事な人が死のうが、生きようが、そのままである。

 

煩悩丸出し煩悩具足の身のままで、無碍光如来のみむねにいだかれて、

 

ただ念佛を申す。情けなくかたじけなく思うが、いつかこの出来事さえも

 

忘れて、ただ苦しんで死んでいくのだと思う。それだけだし、それでいいと

 

思う。

 

凡夫のこの身こそが、如来と値遇するかけがえのない場所であったとは、

 

今の今まで知らなかった。法のはたらく場所を機という。

 

信は握るものではない。ただ仰ぐものである。留まってはいけない。

 

流れるまま、流されるまま、でも、流れない。