むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

キェルケゴールの日記

根本的なことは、私にとって真理であるような真理を発見し、

 

私がそれのために生き、

 

かつ死ぬことができるような理念を発見することである。

 

いわゆる客観的な真理などを発見したところで、

 

それが私にとって何の役に立つというのだろうか。

 

(哲学の歩き方p142 竹内均 ごま書房)(22歳ころの日記とのこと)

 

たまたま手に取った本に琴線に触れる言葉があったので、

 

忘れないように記録する。

 

むなしさの根源は、私にとって真理である真理に出会いたい、でも、

 

それが満たされない、というものであったのだろう。

 

この身がある限り、本当の出会いが実現されることはない。

 

本当の出会いとは、往生浄土、成佛である。それは今生では決して、

 

成し遂げられることはない。この身が滅ぶとき、必ず遂げられると定まっていると

 

よきひとから聞かせて頂くばかりである。

 

どうしても真理に到達できないわたしのために、真理のほうから、

 

名となり、ことばとなり、今ここまで来てくださり、念佛を申す身にまで

 

仕上げて下さったこと、まことに如来のひとりばたらきである。

 

西洋の思想家、哲学者も結局のところ、親鸞聖人と同じことを

 

求めておられた、そして出会った人々は、如来のことを讃嘆しているのである。

 

彼らもまた諸佛である。

 

南無阿弥陀