むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

親鸞に出遇ったひとびと

タイトルの本は、読んでほしい本であります。

 

カテゴリーに「ふれてほしい本」を加えました。

 

時々紹介できれば、と思います。

 

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AB%E5%87%BA%E9%81%87%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8-%E7%AC%AC5%E5%B7%BB-%E5%AF%BA%E7%94%B0-%E6%AD%A3%E5%8B%9D/dp/4810406792/ref=pd_sim_14_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=C09FQWZMGKB6XZXQA1S0

 

こんなブログに足を運んで下さる方がいらっしゃるようでありまして、

 

ぜひ尋ねてみたい。どうしてこんなブログを見てくださるのですか?

 

何かひっかかるものがあるのか、それとも真宗の教えを聞いておられる方々なのか、

 

自分には分かりません。コメント待ってます(笑)冗談です。

 

しかし、われわれ人間は必ず死なねばならない身を生きている。

これは、どんな人も共通して貫く問題であります。

 

何人も逃れることのできない、ゆるぎない事実であります。

 

このことを先立って問題にされ、生死出づべき道を求められた先達がいる。

 

これが真宗であれば、親鸞聖人をはじめ七高僧、釈迦如来であります。

 

タイトルの本は1~5までありますが、数字の大きいほうが現代に近い方々の

 

お話であります。藤谷秀道先生も出ています。高倉会館で講演された際の

 

お話です。読み進めると、自分の感覚に近い先生に出会うでしょう。

 

さすれば、その先生の著書、有縁の知識を尋ねれば光が見えてくるでしょう。

 

 

先立って生きて往かれた、往生されていった先達の言葉をてがかりに、

 

自分は何のために存在し、何をしにこんな苦しいところへ来たのか。

 

それを古来、後生の一大事という言葉で表してきたのであります。

 

現実を直視し、わが身に真に対峙したとき、「わたしは何一つ分からない」と

 

立ち尽くさざるを得ない。

 

そのとき佛の声が念佛の響きとなって衆生を貫く。

 

聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転と、

 

無量寿経、本願成就文であらわされた「とき」であります。

 

永遠に裏づけされた一瞬。

 

それによって、往生が定まる。往生が定まるとは、

 

自分は一体どうすればいいか、が解決されることであります。

 

自分の答えは、いつ如何なるとき、場合においても、ただ念佛を申す。

 

念佛を聞く。自分のすべきこと、すなわち行はただ念佛の一行を持つことのみ。

 

他に何一つすべきことはない。これは生きた先達、全休さんに教えて頂き、

 

それを生活で確かめていることであります。

 

専修念佛唯一行の道をたとえ一切に捨てられようともとぼとぼと往く。

 

他者は関係がない。自分と如来の関係に何人も介在する余地あることなし。

 

どうすればいいか、立ち尽くした日々があった。

 

涙も枯れた日もあった。

 

今もあのときと何も変わらないのかもしれない。

 

変わったとすれば、念佛が聞こえる。ただそれだけだし、

 

それだけで満足なのである。

この響きは凡夫往生の悲願の響きである。

 

あなたは何をしに、こんなところへ生まれてきましたか?

 

今一体何をしているのですか?

諸行無常 生者必滅 盛者必衰 一切皆苦 涅槃寂静

 

 

南無阿弥陀