佛縁を下さった有縁の方を善知識とお呼びする。
自分にとっての善知識を考えてみたい。
・祖父。一声も念佛しなかったが、間違いなく地蔵菩薩の化身だと思う。
・妻。彼女が居なかったら多分死んでいただろう。ただ傍にいてくれることが、
どれだけ支えてくれたか。弥陀の本願を味合わせてやりたい。
刺し違えても構わないから、何とかしてやりたい。無謀な考えでも、
こう思わされるほど、恩が深いのである。
・真宗、親鸞聖人の言葉とご縁を下さった方。たまたまの出会い。
・藤谷秀道師。信の一念で全てが終わるわけではない。これは出発であり、
ここから真実が明らかになってくる、と教えて下さった。
師はお子さんを二人なくしておられ、耐えられぬ悲歎を経て、念佛に
出遇われた。師のお言葉は肺腑に沁みるのである。
・念佛の師。専修念佛の先生。先生にお遇いできて本当によかった。
生きた念佛の人ほど有難い方はおられぬ。法の力強さを常に説いて下さる。
優しい。苦しみ、悲しみを知っておられるから、他者へ配慮ができるのだろう。
・信心の師。機を教えて下さる。人間の悲しみの尊さを教えて下さる。
先生の教えに対する真剣さは、聞法の場以外でも変わらない。
・和田稠先生。往生の師。助かったと言わせてくれない。どこまでも
歩み続ける往生の力強さを説かれる。
・有縁の方々。生活を通して、わが身わが心の浅ましさを繰り返し、
巻き返し教えて下さる。人は光である。人がいなければ佛は必要ない。
人がいなければ自分の浅ましさは見えない。有難いと思う。
今は釈迦如来が滅度をとられてから、まだ年月が浅い。
確かに末法であろうが、有縁の先生方を拝見しても、
信心決定されている方は沢山おられる。妙好人もおられる。
こういう時代に生まれることができたのは、幸いだったのだろう。
ただし、もしもう少し時代が下がった時に生を受けたとしても、教法を通して、
釈迦如来の教え、本願念佛の教えは躍動するだろう。
南無阿弥陀佛