むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

諸佛阿弥陀

汝、わが名を称えよ。わが願力で必ず往生させる。

 

これが乃至十念 若不生者 不取正覚の誓い、無量寿佛の仰せである。

 

 

汝、無量寿佛の御名を持て、持てとは称えつつ聞けよの仰せ。

 

これが釈迦如来の仰せである。

 

 

浄土真宗は二尊の仰せに従うのである。

 

 

仰せに随うことを信順という。タスケル、称えよの仰せに打ち負かす相である。

 

 

機の深信とは、我が力は及ばずということ。何に力が及ばないかというと、

 

人生そのもの、無常、我執、一切に対する根本的無知に

 

対峙すること能わず、ということである。どうにもならない。

 

すなわち、わたしは助からない者であるということが暴露されるということだ。

 

奪い、傷つけ、分け隔てし、区別し、差別し、どうでもいいことしか頭になく、

 

自分さえ良ければどうでもいい、という存在。これが自分であるということ。

 

凡夫という言葉は浅ましい言葉だが、すでに光至り届いた響きがある。

凡夫とは、実は智慧に照らされ本願によって、受け止められた者なのである。

 

法の深信とは、だからこそ、間違いなく弥陀の誓願によって往生をさせて

 

頂くのである、という自然なる直観的確信をいう。

 

自分が信じるとか分かるとか、そんなもんでない。次元を異にする。

 

 

如来の仰せが念佛の響きとなって、われという存在を貫徹したとき、

 

初めて、あぁそうであったかという自覚が起こさしめられる。

 

そこが即得往生住不退転の身に摂取される刹那、一念と仰られる。

 

人間には、それが起こるのである。これは不思議なことである。

 

この真実は、真宗に助けられ、往生を遂げていった方々の言葉の響きに潜在している。

 

これを諸佛と申す。念佛を証ししていった方々の言葉の響きである。

 

われらは諸佛を否定することはできない。すでに往生していったのだから。

 

そこから真実の生が始まるのである。そして往生は必ず遂げられる。

 

必至滅度の願が成就しているからである。

 

そして、われらもまた往生せしめられ、諸佛となっていく。

 

南無阿弥陀