あるお寺へ行った。お話は機を責めるようなものだった。
自分には不要でしたので、午前中で帰りました。
機を責めたところで、せいぜい自己反省、若干の自己否定で
終わるより他にない。聞いたその時はあぁと思っても、
寺を一歩でたらすぐに忘れ果てるでしょう。
自分はもう忘れました。
自己反省、自己否定で助かるようなものではない。
佛に成りたいのは自分ではなくて、法蔵比丘の方である。
何としてもこの助からぬ者、即ち私の上に自らの功徳を
成就せしめんという覚悟、大悲。
不果遂者不取正覚(佛説無量寿経第二十願)
念佛聞くばかりでもう十分でありますと聞き抜く。
聞名の一行をたもつ。ここに自ずから、如来の大悲が
わたしの存在そのものを貫徹するのである。
助からぬわたしのためにわざわざ名となり、声になり、
言葉にまでなって下さり、喚びづめに喚んで下さる。
この一声を聞く。これよりほかに具体的な本願はない。
不満ばかりのひぐらし、申し訳なく思う。
南無阿弥陀佛