むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

念佛の大悲まします

失踪というテレビ番組を見た感想を書く。

 

おそらく誰かに自分を受け止めてほしい、

 

大事にされたいのだろうなと思った。

 

失踪し家を離れた彼女たちは言っていた。

 

自分には何の価値もない、と。

 

親鸞聖人は、いしかわらつぶての如くなる

 

われらと仰った。

 

どこにでも転がっていて、誰からも

 

見向きもされず、大事にもされず、

 

必要とされないようなものが、われらだと。

 

どうか気づいてほしい。

 

親鸞という人は、自分もいしかわらつぶての

 

ようなものであると考えておられる。

 

その心がわれらという表現にこもっている

 

ことに気づいてほしい。

 

われらを、『苦悩の有情』といいかえると、

 

如来の作願をたずぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまいて

大悲心をば成就せり(正像末和讃

 

苦悩の有情とは、むなしさと煩悩と無常の身を

 

抱えたわれらであり、

 

われらのために如来は立ち上がられ、

 

一歩も一寸もままならぬわれらを

 

憐れみたまいて、今ここにことばとまで

 

なって出遇いにきて下さるのが、

 

今口に称え、今耳に聞こえまします、

 

南無阿弥陀佛である、と聞かせて頂く。

 

念佛の大悲に出遇うことで

 

いしかわらつぶての如くなるわれらは

 

如来によって必ず浄土に往生せしめられることが正しく定まる。

 

ここに人と生まれた悲願が成就する。

 

人間にはそれが起こりうるのである。

 

迷うなら真宗に尋ねてほしい。お寺にまいってほしい。

 

あるいは図書館に行って、浄土真宗の先達の本に触れてほしい。

 

今あなたやわれらのもとに、常に如来ともにまします。

 

念佛に生き、

 

そして命尽きていったあまたの念佛の歴史、諸仏まします。

 

われらは諸仏を否定すること能わず。その故は、

 

彼らは既に往生を遂げていったのである。そういう人々が無数に存在したし、

 

これからも出続けるのである。そこにわれらも含まれていくのである。

 

だから自分を大切にしてほしい。あなたは佛に成りうるいのちを生きている。

 

自分も死んでもいいかと思ったし、

今も道は行き詰まっている。

 

否、はじめから 行き詰まっていた。それを知らなかった。

 

いずれ必ず死ぬのだから。 そして、たまたまその時死ななかっただけである。

 

さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまい もすべし(歎異抄

 

しかし、念佛まします。無碍の光明まします。

 

仏からの道まします。これで道がついたのであります。

 

どうかよき出会いがありますように。

 

南無阿弥陀

 

 

 

願力無窮にましませば

罪業深重もおもからず

仏智無辺にましませば

散乱放逸もすてられず(正像末和讃

 

如来の智慧をはかることはできない。

 

唯仏独明了(仏説無量寿経

 

疑うことなかれ、思慮せずそのまま称え、ただ聞くばかり。

 

煩悩、悪性さしおいてただ念佛申すべし。

 

 

極重悪人唯称佛(正信偈

 

極悪深重の衆生は  他の方便さらになし

 

ひとへに弥陀を称じてぞ 浄土にむまるとのべたまふ(高僧和讃