声聞、縁覚にとどまるようではダメである、
大乗の菩薩大士は戒める。
自利に留まらず、他利、すなわち一切衆生の成仏をともに目指すものを菩薩大士という。
なぜ声聞、縁覚ではダメかというと、自利には限界があるからである。
自分が分かったとか助かったとか、何を言っているのだ。
自分の理解、自分の感情、自分の認識の範疇に収まるのが菩提心か。
そんなものではないだろう。どこまでも高く、何処までも広く、
どこまでも深く、どこまでも果てしないものが菩提心でないか。
泣いているものが一人でもいるのであれば、決して往生を遂げない。
これが佛に成ろうとするものの根本的な態度であるべきではないか。
煩悩はどうにもならない。悪性もやまない。ではどうするか。
そのままである。そのままの根本を見よ。一切は法性の真っ只中であろう。
区別するのは、汝のちっぽけな分別である。ことば以前には、
物事は常に一(いつ)である。ことばで分けるから、ふたつになるのである。
ことばを離れればいつでも空である。
どこまでも菩提を求めるのである。
そこにいいとか悪いとか、尊いとか尊くないとか、介在する余地は
微塵もない。一切は平等であり、僕は無常が平等の根拠だと思っていたが、
法性が平等の根拠である。一切のものは法性の只中にある。しかし、
智慧なきがゆえに倒錯し、迷っているに過ぎない。
迷いは迷いのまま菩提である、このような
南無阿弥陀佛