ある座談会のこと。
その人は以前別の聞法会で顔を拝見したことの ある方。
年齢は70歳前後。
真宗の救いとは何か、それは一切のことを有難く感受することだ、
こんなことを言っていた。念佛をしてもダメだ、と。
面々が述べ、僕が自分の領解を述べた際、
彼はそんな解説はいらんから、
あんたの信心はどうなんだ、 と言われた。
僕ははっきりとこう述べた。
感情と信心は一切関係がない。
本願に対する疑いがあるのか、ないのか。
佛の仰せに順ずるのか、自分の思いを立てるのか。
これだけだと 。
信心が起ころうが起こらまいが、
煩悩はそのままであり、悲惨な現 実もそのままだ、と。
どうにもならんその者にわが名を称えよ、
必ずタスケル、の仰せが あり、
自分はそれに従う、念佛を申しつつ聞くばかりだ、と。
そして、聞こえる、という時には
疑いが破られるという相をと るのである。
僕には佛法も信心も微塵もない。
僕が喜べようが喜べまいが、悲しかろうが、
悲しくなかろうが、
そんなものは縁に依って思えたり思えんかった りする。
そんなものに用事はない。
いいじゃないですか。
汝を助けることができなければ、火柱抱えて 地獄へいくの
覚悟がこの法蔵の初一念じゃぞ、
善知識がおっしゃるのであれば、 一緒に地獄でも
どこでもいけばいいじゃないですか、と。
元々僕は短気なのである。
その人はだまった。
僕は彼を黙らせたかったわけでなく、
信心をありのままを表白しなければならないと思った。
如来の御前で自分の佛法の領解を述べるならば、
聞く方も述べる方 も真剣にならざるを
得ない。
大事な問いだから、しっかり応えたいと思った。
藤谷秀道先生は、ある法座でこう仰っていた。
これを思い出すので ある。
南無阿弥陀佛