むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

原点

信心とは原点である。


自分が起こせるものではないが、


自分に

起こらしめられたものである。


帰入功徳大宝海、入正定之聚と


親鸞聖人は仰る。


信心と念佛が交互にはたらいて


下さり、凡夫の私を迷いの身に


引き戻す。そうすと、功徳大宝海の


智慧の波が煩悩、我執、無明を


さらっていく。


さざ波は絶えず繰り返し繰り返す。


現実は厳しく、命も資産も

限られていて、なんでもできる訳でないし、


人と人が暮らすのは、関係において


摩擦や衝突、別れは避けられない。


この身は有情の死骸を摂取して

やっと保たれている。


貧富貴賎賢愚美醜差別殺人窃盗、


悪事悪口もなくならない。


何故ならここは娑婆だから。


そして、われらは死を具足した者で


あり、何人も死を免れることはない。


死を超え、厳しく悲しい現実を


堪えきれさせて下さるはたらきが


如来であり、信心であり、念佛であり、


願でありましょう。


自分の言葉でいえば、


如来は足であり、大地である。


常に凡夫たる私を大悲し、念佛せよと名乗りでて下さる。


和田先生はおっしゃった。


如来は運動の概念だと。


南無阿弥陀