浄土宗のひとは愚者になりて往生す。
愚者とは煩悩具足の自身を如来に託したものである。
煩悩具足とは拭いされるようなものではなくて、
自分は煩悩のほかに何もない、どうにもならないという
ことだと実感する。
色即是空空即是色。
故にそのままなりで助けずばおかないという大悲が
煩悩具足のわれらにかけられているのである。
極重悪人唯称仏の仰せ。
如来に出遇っても全く煩悩は止む暇がない。
また信心は自分と他者を区別するものではない。
信心とはいよいよ自分は助からぬ凡夫であり、
誰かや何かを傷つけることでしか存在できないということと、
だからこそ汝を必ず往生させるという念佛往生の願力が
かけられていること、
そして、煩悩具足の苦悩の有情がわれらであり、
この一点において全くわれらは平等であることが
三位一体に繰り返し巻き返し知らされるおはたらきである。
仏教とは実践であり、現実である。
娑婆を娑婆ながらに真実を反照してくれる場所に変えなす。
転じて下さる。
大悲がわれらの声に姿を変えなして今聞こえて下さるよ。
南無阿弥陀佛と聞こえるよ ただ聞くばかりだよ。
南無阿弥陀佛