災害に被災するという感覚が分からなかったが、
こういうものなのだなと身を通して感じた。
言葉に出来ないが、ずっしり重いというか。
家族や親戚友人知人には直接的な被害は
なくても、見慣れた景色や図書館を
思えば、なんとなく今日は胸が苦しかった。
知らない間に自分の一部になっていたのだなと
改めて知らされた。
何にせよ、自らの身を通して学ぶ、実感することが、
本当に学ぶということであり、そうでなければ、どれだけ学問しても、
どれだけ思索しても、それは独りよがりであって、学ぶことにはならない。
いのちある間のこの人生は、有縁のともがらとともに、
悲しみ苦しみに身を浸し、それらを体解せよ、ということだと受け止めたい。
信心決定しても、煩悩はなくならない。
無佛法の普通の人と何も変わらない。
自戒を含めて、重ねて重ねて確認したい。
信心は自分と他人を区別する根拠には決してならないし、
してはならない。
法執は我執よりも更に激しい。驕慢に陥りやすい。それほど、
自分の凡夫性はしつこく、根深いのである。
だから、忘れてはならない。
南無阿弥陀佛、念佛の法は平等を必ず成し遂げるものであると。
南無阿弥陀佛