むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

名無往生文 われら人間の観察について

人間は多面的存在である。立体的である。
 
多面的とは次のような意である。
 
わたしは子である。わたしは兄である。わたしは孫である。
 
わたしは日本人である。わたしは男性である。わたしは父である。
 
わたしは祖父である。わたしは「役職」である。
 
気づくべし、これらはただの飾りに過ぎないということを。
 
われわれはその一面を見て、この人は「こんなひと」であると考察する。
 
その考察の根拠はわたしの主観である。主観の根拠は思い(こう思う故にこうである)である。
 
確かに一義的にその考察は的を得ることがある。経験則によるがゆえに。
 
しかし、それはやはり一面的である。その人がそうなってしまった、そうならざるを
 
得なかった背景、すなわち過去を吟味していない。というよりは、何も分からない。
 
しかし、やはり「こうだ」と決め付けて、その人を見る。
 
また自分の考えを憑み、間違いないと決め付けて生きている。これを邪見という。
 
間違いないと奢り高ぶることを驕慢という。
 
われ、というものが永続的に存在するという無意識の倒錯を我執という。
 
我執の根拠は無明である。無明とは智慧のない状態をいう。
 
無明あるが故に形を伴って存在している。
 
無明が滅されたならば形を伴うことはない、と釈迦如来は仰られている。
(スッタニパータ 岩波文庫参照)
 
ただし、佛菩薩方が、衆生のために敢えて形を選びとる場合をば除く。
 
如来とは智慧であり、光明であると仰られている。
 
釈迦如来は応身、阿弥陀如来は報身、無上佛は法性法身と仰られる。
 
如来に摂取されることで、初めて凡夫が誕生する。
 
凡夫とは如来、光明、智慧の言葉である。透徹したまなこである。
 
人間が他者に用いてよい言葉ではない。
 
人間が用いるならば、それは自身を言い当てる言葉としてのみ、
 
許容される。
 
また、人間の行為一切を「雑行」とおさえられている。
 
「雑行」の体解する意は二種ある。
 
一つには「我執具足するが故に、全ての行為に見返りを求める心を伴うこと」、
 
二つには「退転退屈を孕むこと、
 
すなわち心身無常である故にわが行完徹することなし」ということ。
 
人間は無明を孕む存在であるが故に、
 
苦から逃れることあることなし。すなわち、流転絶えることなし。
 
流転とは後生のみにあらず、人間の境遇すでに三悪道の相あり。
 
人間の境遇であるうちに、仏法にたしなめと仰せられ候。
 
残酷な現実によって無数の驕慢の手足一つ残らずもぎとられ、
 
裸の人間にすぎぬと暴露されたとき、思いがけず念佛の信心は発起せしめられる。
 
ただし、信心は決して私のものにならない。娑婆に染まらない。
 
南無阿弥陀