むなしさとともに

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愚者なりて往生す

親鸞聖人がご晩年に法然聖人から聞いたことを

 
ご述懐されたお言葉です。
 
 
このお心を尋ねますに、念佛に帰れということでありましょう。
 
分かったような気分になる。助かったような気になる。
 
自分の思いはいらんのであります。
 
自分が助かるか助からないか知らない。もろもろの衆生が助からないのに、
 
自分が助かるわけにはいかない。ともに平等に助けられるわれら、であります。
 
よって、如来がタスケルぞ、念佛申せよと絶え間なく仰る。
 
憶念とは如来が大悲憶念、
 
即ち心を掛けずめであり、喚びづめであり、抱きづめである。
 
共に寄り添ってくださるやさしさ、ぬくもり、あたたかさである。
 
ただそれだけで十分なのです。仰せひとつで安心。何も問題ない。
 
この相が愚者でありましょう。我を張る必要がない。自然なる愚者である。
 
元の木阿弥に帰る。無佛法の身に帰る。
 
これが本当に大事なことのように思います。
 
真宗はわれとかれを分ける道具にはならない。
 
われもひとも、ともに苦悩を抱えたただひとりの凡夫である。
 
悲惨な現実、ぬぐい切れぬ深い悲しみがある。
 
そこに帰らしめるものが念佛であり、信心であり、
 
浄土であり、如来でありましょう。
 
『われら』を開く、開き続けてくださる教えが真宗であります。
 
真実信心はわれらをてらすおはたらきであります。
 
娑婆に属さない浄土のはたらき。
 
南無阿弥陀