むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

名無往生文 大乗 浄土真宗

煩悩はそのままである。

 

煩悩がなくなるわけではない。それどころか、いよいよ煩悩が深い。

 

浅ましいわが身の現実はいよいよ悲惨である。食べること、差別し、区別することを

 

やめることができない。むしろそれを楽しんでいる。

 

埋没している。埋没とは、すっぽりかぶっているということ。

 

このことを親鸞聖人は地獄一定と仰られたのではないか。

 

地獄一定が往生一定。

 

だからこそ、必ず往生させずばおかないという、本願念佛に

 

帰るのである。

 

自分の問題は信心から往生へ移った。

 

往生が問題である。和田稠という先生は往生の先生だと思っている。

 

往生とは体当たりである。煩悩を引きずり、我執にとらわれながらも、

 

なおも浄土を願わずにはおれない。平等、寂滅を求めざるを得ない。

 

それはここが娑婆だから、自分が煩悩具足の凡夫だからである。

 

浅ましい、痛ましい、恥ずかしい。苦しい。全くの孤独である。寒い。

 

しかし、嘆くことなかれ。八地はこれをそのまま超える。

 

ここに浅ましさ、悲惨さをを告げ知らせた大いなる光がある。

 

ここに光が至っている。だからこそ相が見えるのである。

 

だからこそ自分は決して助からぬ者であると何度も何度も知らしめられるのである。

 

念佛に何度でも帰る。

 

念佛に帰れば即本願がはたらいて下さる。

 

南無阿弥陀佛、タスケルゾヤと聞こえて下さる。

 

おそらく、これが藤谷秀道先生が仰りたかったことの片鱗だと味わう。

 

寂滅。すなわち静かである。透き通っている。


八地と七地は全く違う。全くの別物である、

 

自分が八地ではない。自分はゼロである。ただの凡夫である。


光明がいよいよ自分の心の闇、深淵に届きつつある。いやでも自分の宿業を

 

感じずにはおれない。信心が菩薩八地の功用をしてくださるのである。


すなわち、絶対にタスカラヌ身である。だからこそ、必ず往生は遂げられるのである。

 

なぜなら今が往生の只中だからである。


これは体解、すなわち体当たりして初めて自身に開かれるものである。


本当に凡夫のままで、必至滅度、すなわち本当に帰るところを発見したのである。

 

そして、この世界を本当の意味で開いてくれるのは、十方一切衆生であり、

 

全く自分では意味を見出せぬ、差別と区別が満ち溢れるこの現実である。

 

また如来と邂逅を果たす処、如来の土俵はこの迷いの凡夫の身である。

 

ここが南無阿弥陀佛のおはたらきになる領域、土俵である。

 

万人を、速やかに、平等に、必ず往生に至らしめる。それが、弥陀の本願である。

 

これこそが親鸞聖人が明らかにしてくださった、浄土真宗ではないかと静かに思う。

 

南無阿弥陀