むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

声のほとけさま

11月1日、ブログを始めてから丸三年の月日が経ちました。

こんな妙なブログを、どんな方がご覧になっているのでしょうか?


少し興味があります。もし良ければコメントで教えて下さい(笑)

 

 


さて、これまでを振り返りますと、


よく一年過ごせた、生き延びれたなぁと思うのであります。

 


一週間前、急性胃腸炎(食中毒的な感じ)になりまして、


深夜3時くらい、いよいよ救急車を呼ぼうかと思ったのですが、


もうすぐ夜明けだ、少し待とう、 と耐え忍んで9時に病院に行った次第です。

 


思いもかけず病に臥す。なるほど、自分の都合に関係なく、 受けざるを得ない。


縁がほどけるまで、じっと堪える。 お医者様の見立てもすごいと思いました。


点滴と薬で次の日には、だいぶ回復しましたから。

 

 


この三年で君に何があったんや、といわれますと、


僕は沢山のひとに出会いました。沢山のひととやりとりし、 過ごしました。

 


多くの先生方から弥陀の本願を聞かせて頂きました。


また、有縁の先生が立て続けに往生を遂げられたこともありました。


別れ、それは悲しいことではありますが、


先生の低く深みのある声は今も響いているのであります。

 


一切の存在を、平等に、速やかに、 最上の覚りを開かしめんという誓いが、


弥陀の本願である、こう仰っておられました。

 


自分の凡夫性、苦悩、すなわち思い通りにいかない現実は、 まったく変わりません。


変わらないどころか、いよいよ深く、いよいよ重い。 全く変わらない。


まことに如来の仰る凡夫そのものであります。


ただし、いつでも帰るところがあります。

 


それは、今口に称え、耳に聞かしめられ、


信心を発起せしめられたところの南無阿弥陀佛のお念佛であります 。


お念佛に何度でも帰る。 そこにほとけさまがいつでも待っていてくださる。

 


国土の名字佛事を成す(浄土論註)のお言葉だと聞いております。

 


国土の名字、 即ち南無阿弥陀佛が浄土のはたらきを成してくださる。


常に喚びかけ、いだきとり、 寄り添ってくださる優しい響きであります。

 


みなさまは、声のほとけさまと聞いたことがありますか?


阿弥陀さんは、正しく音声佛でありましょう。

 


なんまんだぶ、なんまんだぶ。 この一声一声に法蔵菩薩の願力がかかっており、


われらはタスカラヌが故に常に大悲されている。


大悲無倦常照我身のおことば、まことにそうだなぁと思うのです。

 


この迷いの身、 タスカラヌ現実こそがわれらがわれらでおれる場所、


如来のはたらきが顕現する真っ只中でありましょう。

 


凡夫は凡夫にあらず(金剛般若経)という経典の言葉があります。

 


不思議な言葉であります。 どう考えても凡夫は凡夫だよなぁと思うからです。

 


この迷いの身に本願念佛が大悲と智慧をもって、 常にはたらいて下さる。


誰からも見放され、邪険にされ、見向きもされないような僕を、


いつでもわれ汝とともにいる、離れることあることなし、 わが名を称えよ、と常に


喚んで下さる。


喚びづめとは、憶念、すなわち


ほとけさまが心をいつでもかけてくださる。ともにいる、 ということ。


この阿弥陀如来というほとけさまは、 よっぽど変わった方だなぁと思うのです。


なぜこんなどうしようもない者に常に関わってくださるのか、 離れてくださらぬのか。


真宗とは出遇うものである。有縁の先生の言葉であります。


これからも本願の大悲を聞かせていただこうと思うのであります。


南無阿弥陀

 

お念佛は何度聞いても飽きない。 まことに底知れぬ大悲であります。