むなしさとともに

念佛とはむなしさを横超する大行なり。専ら聞くばかり。ともに聴聞しましょう。もろびとみなともに。

我執が削がれてゆく

佛法、浄土真宗には二つの利益があるとされる。

一つには、入正定聚の益、すなわち住不退転。


二つには、必至滅度の益、すなわち往生成佛。


後者は、期するところの益であり、往生には出発があり、


必ず遂げられるという性質がある。よって、 これは論ずることができない。


入正定聚の益、住不退転の益について、考察する。


本願海に回入すれば、自ずから信心と念佛に摂育されはじめる。


はじめは、すなわち信の一念が起こったばかりでは、 十分に佛法を味わうことはできない。


愛楽佛法味 禅三昧為食(無量寿経優婆提舎願生偈)


本当においしいもの、すなわち佛法の味を味わい始める、 それを繰り返すことで、


自ずから信が深まってくださる、信が信を明らかにしていく。


そうすると、われ、わたしは、 という思いにこだわる必要がなくなっていく。


思いがなくなるのではない。それに執着、 固執する意味がなくなっていくのである。


このことを本願海にさらわれて、煩悩我執が遠くに流されていく、 と言ってみたい。


念佛の波がわがこだわりをさらっていってくださる。


煩悩を見せ付けるというはたらきをもって、 何度でもさらってくださる。


智慧の念佛、信心の智慧智慧は光明。如来如去。

 


遠くに流されていったならば、自ずから、 いつの間にか忘れ去っていく。


どっちでもよくなるし、囚われない。囚われていることが見える、


囚われが見えて念佛に帰る。

 

我執が何度湧いてきても、それをご縁として

南無阿弥陀佛が来て下さる。

 

心配するな、共に居る。任せよの仰せが南無阿弥陀佛。

 


このことを柔軟心の成就と佛法では表されている。


この柔軟心がなければ、 この生死難度海を流れていくことはできないのである。

 


流されつつ、流されない。流されても、流れない。 これが菩薩大士の有様であります。

 


我執によって、苦が引き起こされているのだなぁと感知する。


自ずから忘れ去る。いつのまにか流されて見えなくなっていく。

 


このことは佛法を聴聞させて頂く大きな利益、 おはたらきだなぁと思うのであります。


南無阿弥陀