むなしさとともに

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なぜ自力では助からないのか⑥

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、 わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。( 大谷派真宗聖典 p541一念多念文意)

 

親鸞聖人のお言葉であります。

 

 


わが、というところに驕慢が潜んでいる。


すなわち、やればできる、ということである。

 


諸善、ということには大きな落とし穴がある。


諸善、諸悪を選ぶのは、すなわちわれ、である。


われの基準(準拠枠)に応じて、よし、あしをわけ隔て、 片方を選び、


片方に固執し、片方を捨てている。

 


自分の行いは正しい、間違っていない、 というはからいがこびりついて離れない。

 

 


すなわち自分の感覚、人生経験に基づく推測、 そして自身を憑みとし、


如来の恩徳を迷失している、という自分の姿が分からない。

 


また、自分は無常の世に住み、無常の法則に支配され、 絶えず煩悩が


起こってやまない凡夫である、 ということがどうしても領解できない。


そして、自分が身をおくこの世界は娑婆である。 堪忍土であることが


分からない。残念ながらここは間違いなく娑婆である。

 


最近、色々なところで出てくるキーワードに『可視化』 ということがある。


すなわち、見えるということが離れるという

ことである。


先達の善及さんが折々と仰っているのは、『見える』 ということだと思っている。

 


佛法は分かったらおしまいである。

 

ただ、自身は凡夫であると見せつけられるばかりであります。

 

愚者になりて往生す、 と法然聖人は


仰られた。そのことを深く、思うのであります。

 

南無阿弥陀