むなしさとともに

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生きた佛法

佛法とは生きたおはたらきである。

 

それは言葉だけで理解するものではなく、

 

現実を通し、身を通し、体解(たいげ)

 

すべきものである。

 

お寺、僧侶を経済的価値観で計っては

 

ならない。経済的価値観は、

 

必ず我が身にふりかかる。必然的に。

 

因果応報、自業自得、盛者必衰は

 

避けれないルール、道理であるゆえに。

 

経済的価値観という物差しで

 

生涯を生きたものには、次のことが

 

降りかかる。

 

いわゆる役立たずになっていく、

 

あるいは、社会から必要とされ

 

なくなる、身体は衰え、惨めに朽ちていく。

 

次第に名を呼ばれなくなっていく。

 

自分の居た場所に別の誰かが座っていく。

 

これは定めである。これらを含めて、

 

タスカラヌ存在を人間といい、凡夫と、

 

如来、すなわち智慧は仰っている。

 

信心決定した僧侶は正に善知識である。

 

その一言がただ事でない。

 

法を具足した人間に出会ったことがないから

 

佛法を世間の教養や知識と並列してみること

 

しかできないのである。

 

寺、同行、サンガは

 

浄土の薫りがする尊い場所である。

 

それが分からないのは、自身が

 

タスカラヌものであると、

 

浄土によって明らかにされていないから

 

である。

 

南無阿弥陀