むなしさとともに

暗黒の最中、真実の声が聞こえる。大悲の御声。南無阿弥陀佛

正直な気持ち

唯識は難しいと聞いたことがあるが、

 

実際すごく微細で、言葉も難しい。全然

 

わかりません。

 

最近は真宗のお聖教ではなくて、唯識

 

本をゆっくり目を通している。

 

煩悩に対する分類分析も細かいし、

 

歓喜地、信心決定がどういう意味を

 

持つかも表されている。

 

信心決定は転換点である、という。

 

そこからいよいよ自分自身の助からなさを

 

聞いていくのであり、だからこそ念佛を

 

与えて下さっていることを繰り返して

 

いく。

 

自分は本当に煩悩具足であり、とても口に

 

出せないものを抱えている。

 

 

今の自分の問題は習気の問題、実践、

 

現実であります。

 

 

暫く、自分の内に目を向け、唯識の学びを

 

進めるので、ブログも、ツイッター

 

更新頻度は落ちると思います。

 

僕は真宗の教えを明らかにするためには、

 

唯識、禅、原始仏教、西洋哲学、あらゆる

 

ものを総動員させ、関連させる必要があると

 

思います。

 

でないと、浄土真宗の教えを

 

聴聞する人が逓減していく気がします。

 

結局は唯念佛一行に帰す、これだけなので

 

すが、その念佛、即ち大悲が分からないので

 

あります。伝統教学と近代教学の融合、

 

藤谷秀道先生が30年以上前に仰っている

 

ことを思うのであります。

 

智慧は理性的であり、慈悲は情意的だと

 

テキストに書いてありました。この均衡を

 

尋ねてみたいと思います。では、おそらく

 

9月頃に。

 

南無阿弥陀

 

 

追記

 

僕は弱いので、正直、この娑婆に生きるのは

 

辛いのです。

 

自分が差別され、評価されるはまだいい。

 

したくもないのに命を奪い、他者を評価し、

 

差別し、悪口を言わなければ存在できない

 

脆弱な存在であること、これがたまらない

 

のであります。しかも、そのことをすぐに

 

忘れてしまう。本当に情けない。

 

 

この生涯が終わるのを

 

望む気持ちも少なくありません。娑婆にも

 

依らず、浄土にも拠らず。こんなことは

 

できないのであります。すると、

 

そんな汝の為の南無阿弥陀佛ではないか、

 

わが名を称えよと念佛が出てくださる。

 

故にへろへろになり、愚痴をこぼし、

 

煩悩を引きずりながら、何とか毎日を

 

やり過ごすことができている。

 

信仰はどうしてもなければならぬものであり

 

やはり真実なる大悲なのであります。

 

では、本当にまた9月頃に。