むなしさとともに

暗黒の最中、真実の声が聞こえる。大悲の御声。南無阿弥陀佛

十地の階梯③歓喜地 死の畏れなし

参考 大乗仏典⑧十地経(荒牧典俊訳)中央文庫

p41 (3)かの菩薩は、自我に執着する妄想(我見)が

消滅している。したがって、自我の観念も存在しない。

それゆえに、かの菩薩には、死んでしまったらどうしようという

不安もない。


煩悩は見えると力を失う。明来闇去闇去明来と

言われる。闇は光に抗う力を有していない。

即ち闇は光によって暗闇というはたらきを、
 
無力化される。如実知見、正見を仏教では

重要視する。

しかし、注意したい。見惑と修惑のうち、

前者は歓喜地で断たれるが、後者を問い続ける

のがこの菩薩の階梯であり、成仏まで、

限りなく問い続けるものであろう。忘れないようにしたい。


この文のこころは、自我に用事なしのこころ。

もはや阿弥陀佛の智慧、大悲念佛にかかれば

もののかずではないのである。

浅ましいすがたはそのまま。煩悩もそのまま。

貪りもそのまま。そのまま貫き至り届くが、

無碍の光。無限大悲。

助からぬ我が身、我が心が目当ての

阿弥陀佛の本願であったかと念佛に帰る

強縁と転ず。

障りも差別も我執も貪りもいつの間にか念佛の

海にさらわれて、見えなくなる。

故に死のおそれ用事なし。死ねば死ね。

生きなば生きれ。ただ念佛して弥陀にたすけて

いただくばかり。

念佛とは大地であり、真実の足である。

揺るぎない無限大悲のすがたである。

まことに不可思議なる仏法、慎んで頂礼致す。

人生には仏法を、体当たりして確かめていく、

という大切な意味があるのではないかと思う。

現実は厳しく残酷である。だからこそ、今、

自分がいる場所は少しでも生きやすい場所に

したいと願い行動するのである。せめて、

ここは安全に安心して存在できる場にしたいと。


南無阿弥陀