むなしさとともに

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なぜ聞法するのか

真宗は聞くことに極まる、と仰られる。

 

聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり、と親鸞聖人は教えて下さった。

 

具体的な衆生とは、僕のことであり、他の誰でもない。他の方は助かった人かもしれないが僕は違う。

 

助からぬ者を必ず救わずはおかない、という本願。

 

これは、僕と無関係なものでもないし、おとぎ話でもない。具体的現実的に、今、ここにいる僕にはたらいてくださるはたらきである。

 

今、ここに存在している助かりようがないものを具足した自分に、だからこそ、助けさせてくれよ、という無限、無蓋の大悲が常不断に注がれている。

 

はたらきづめにはたらいてくださるかたの名前を南無阿弥陀佛と申す。

 

この南無阿弥陀佛を称え、聞かせて頂くばかりで、外になにもありません。

 

汝を助けずばおかない、必ずわが国に生まれさせるという声が南無阿弥陀佛。

 

このいわれははてもなく、そこもなく、きわもないので、この如来の別名を不可思議光佛とも申します。

 

生涯南無阿弥陀佛のいわれ一つを聞き抜けよ、と善知識が仰せ下さることをそのまま頂き、この聞名の一行を相続させて頂きます。

 

そのために、日曜の午後、お寺に足を運び、聴聞の場に身を置かせて頂くのであります。

 

仏様のはたらきを悪趣自然閉、閉塞諸悪道と申します。

 

新たな船出

土日はTA(交流分析)の一泊二日の研修に

 

参加しました。

 

目的は、どうすればうまく他者とやりとりができるのか、という技術と知識を学ぶためです。

 

知らないことばかり、人間の洞察、分析の鋭さに驚きました。

 

また自分の認知、認識能力、言語、表現に癖があり、如何に互いがそれに囚われているかを教えて頂いた。

 

まだ消化中なのだが、他者は変えられなくても自分の動きは自分で決められる。

 

もう幼い頃に得た認知の傾向は、大人となった今の自分には懐かしくはあっても、

 

毎日使うものではない。

 

おもちゃ箱にそっとしまって、今までありがとうとお礼を言えばいい。

 

I'm ok,you are ok。

 

だから、あなたはあなたの道を決めてね。

 

僕は自分の道を決めるから。

 

少しだけ楽になった。

 

知らないことが山ほどあるので、新たな領域に足を踏み入れたい。

 

そして、現実で実践し、体解したい。

 

本当に身につけてこそ、初めて本当に理解したといえるのでしょう。

 

ただ、現実はうまくいかない(苦笑)

 

その立場になったり、場所を移って初めて

 

わかること、というやつでしょうか。

 

 

 

身につける

曽我量深先生の言葉、

 

往生は心にあり、成仏は身にある、と。

 

身とは、今この身であるし、土でもある。

 

自分はこの土に属している訳で、自分と

 

無関係に土がある訳ではない。

 

僕は思うのです。悲しく、辛い生存は

 

この一期で終わりにしたい、と。

 

もう差別、区別、分け隔て、優劣、美醜、

 

こういうものを卒業したい、と。

 

そのために、学ぶことがある。

 

技術、あるいは、表現の方法であります。

 

心はすがたをとって、初めて表出する。

 

身につける、という学び方が、本当に

 

大切なのだろうとしみじみ思います。

 

死に逃避するのではなく、正見し、

 

対峙し、体当たりしていくところに、

 

体解という道がひらいていく、そんな気が

 

するのです。つまりは、主体性の問題です。

 

心境にとどまるのではなく、それを

 

破っていく。こういう道です。