むなしさとともに

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名をもって接したまう

我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に撹入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。(元照律師 弥陀経義の文 顕浄土真実教行証文類 行巻)

 

一声一声、如来のおでまし。

一声一声、浄土真宗

 

木村無相さんの詩だったろうか。

 

こえにつきて決定往生のおもいをなすべし、とは法然聖人のお言葉。

 

名をもって衆生を摂取する。

 

逃げるものを追わえとる、いだきとる、

 

大悲する、諦めない。

 

本願もっとも強しと善導大師は仰る。

 

この一声を聞きなさい。

 

一声にまでなって下さった大悲の御心を

 

聞くよりほかに聴聞はない。

 

南無阿弥陀佛とは、助ける助けるの仰せ、如来の直説法なるぞ。

 

師のおすすめを頂くより、ほかにわれ道あることなし。

 

 

 

 

称名必得生依仏本願故

称名必得生依仏本願故というは、御名を称するは、かならず安楽浄土に往生をうるなり。仏の本願によるがゆえなり、とのたまえり。

(尊号真像銘文 親鸞聖人)

 

この文章の前に、このようなお言葉がある。

 

正定之業者即是称仏名というは、正定の業因は、すなわちこれ仏名をとなうるなり。正定の因というは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねともうすなり。

 

仏名を称えることは、仏様が選んで下さった行いである、ということ。

 

すなわち本願に順ずる、相応するが故に必ず安楽浄土に往生をうるのだ、と。

 

以前、頂いた冊子をそのままにしておいたのだが、土日で目を通した。梶原敬一という先生のお言葉があった。

 

逃げても逃げてもお浄土を荘厳してしまうということです。逃げられません、お浄土からは。

どんなに逃げても浄土から逃げられないんだということを自覚すると強さが生まれてくるのです。

 

こういうお言葉が、諸仏のお言葉だと思う。

 

皆一人残らず往生してしまうのだ、本願のお

はたらき故に。

 

辛いとき、悲しいとき、思い出してほしい。

 

僕もそういうものを今も引きずっているよ。

 

でも、そこが唯一、共に、ということをひらく大事な場所です。

 

苦悩が共振する。共に難儀を抱えた者なのだなぁと。

 

ときが至ったとき、念佛が本当に透徹し、

信心となって下さる。

 

そこから、真の道が始まる。人間には、そういうことが起こるのであります。

 

 

 

 

 

右往左往しています

本当はね、評価したくもないし、

 

されたくもない。でも、社会に身を置く以上避けることはできない。

 

だから、きついこともつきつけないといけない。

 

流れは変わらないし、変えることはない、と。

 

会計とフィンテックは非常に相性がいいのです。

 

だから、単純な作業は機械に任せて、人間は他のことをしましょう、と。

 

考え、問題提起し、現実を具体的に変えるためのはたらきかけ。

 

これが経理に求められていることで、作業ではない。

 

つきつけることがいいのか、悪いことかは分からないが、事実ということはわかる。

 

資金は有限で、投入できることを選ばないといけない。

 

そして、競争に勝たないといけない。

 

社内だろうと社外だろうと、存在価値を具体的に結果をもって示さなければならない。

 

代わりはいくらでもいるのだ、互いに。

 

だから、努力しなければならない。

 

ちっともマシなものになりませんね。

 

 

そうか、ここは娑婆で、自分は凡夫か。