むなしさとともに

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方便法身の大悲

今日、ZOOMの聞法会に参加させて頂いた。

 

研修で使ったことがあったが、プライベートかつ、聞法会では初めてだった。

 

感想は、改めて、その場に足を運ぶことは、それそのものに力があるのだなということだ。

 

先生は、悩んでおられた。どうすれば毎年継続してきたことを今年も継続できるか、と。

 

その結果、十分な対策を講じ、最少人数で、ZOOMも含めた開催だった。

 

オンラインは非常に難しいのだなと、自分の失敗を含め思ったことと、骨を折って聞けよと言われたことは伊達ではないのだなと改めて感じた。

 

一月後に、同様形式の集まりを開く。

 

その際、今日のことを踏まえて、配慮しておきたいと思う。

 

不便をおかけするかもしれないが、このような状態で何とか開催をしたいと考慮した結果のすがた、であるということは、

 

法性法身と方便法身の関係に関連している。

 

そういう姿をとらざるを得なかったのは、法の理由ではなくて、衆生の課題によって、であるということだと感じる。

 

重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

 

名となり声となってはたらき続けよう、という大悲。

 

南無阿弥陀佛とは称えるものではなく、称えつつ聞かしめられるものであり、行である。

 

念佛の信心において、信か疑か。

 

疑は未決定であり、不安であり、無知である。

 

信は、決定であり、一定であり、信知である。

 

真宗は摂取の光明、南無阿弥陀佛に助けられて必ず一切衆生が皆往生する、と教えられる。

 

いちにんの救いは一切皆往生でなければ成立しない。

 

誰もいない浄土に用事はない。

 

本当の救いとは、もう自分は助からなくても構わないということだと思う。それは、大悲によって必ず助けられるという信に裏付けされている。

 

如来の証果が、今ここで、この身に称えさせて下さり、聞かしめて下さるところの南無阿弥陀佛の一声一声でありましょう。

 

南無阿弥陀

ZOOM研修会のご案内です

【事前案内】

11/7.8の土日9時〜17時でZOOMの研修会があります。

 

講師のご法話、全体座談の繰り返しになるかと存じます。

 

初日の午後、僕もお話の時間を少し頂く予定です。

 

会費は一日4,000円です。

 

もしご興味があられたら、コメントにメールアドレスを頂ければ、近日中に詳細案内をお送りする所存です。

 

どうぞお気軽にお尋ね下さい。

 

ずっと訪ねていることを言語化し、無限大悲のことを話したいと思っています。

 

顔出し、声出しです(笑)なんてことないですが。美男子でなく、はい残念。

 

では。

 

南無阿弥陀

 

 

おかげさまで無事終わりました。

 

終わることの中には残響と静けさがありつつも、すでに次の動を含んでいるのだなぁと、今回味合わせて頂きました。

 

 

 

 

 

摂取心光常照護

摂取心光常照護というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきになりぬとしるべしとなり。(尊号真像銘文 親鸞聖人 東聖典p532)

 

光とは照らすもの。照らすということのはたらきは、可視化する、そこに何があるかを見せるということ。

 

光が照らし見せつけてくださるものは、自身の凡夫性、自己中心性、他者排除性、貪りと驕り高ぶり、怠け、慢心。これら煩悩具足という自身の有様である。この自身の現実を真宗では、助からぬ身、地獄一定と表現されてきた。

 

他者が助からないのではなくて、自分は決して助かるまじき者であると、徹底的に反復して教化下さり、こう仰る。そう、問題は自分なのだ。

 

助からぬ汝よ、我が名を称えよ。決定して我が国に往生せしめる、と。

 

無明と生死の永き夜がなくなるのではなくて、方向が定まる。憑むべきものがわかる。

 

方向は浄土、憑むべきものは如来の仰せ、

依るべきは念佛一行。

 

凡夫が凡夫でないものに成って助かる、即ち、自分が自分であることを受け止められるのではなくて、全く受け止められない、われに道有ること無しというところで、

 

本願招喚の勅命が向こうから聞こえて下さる。

 

そこに摂取不捨の無碍の光明にこの身このままいだかれる。

 

すでにあかつきになりぬとしるべしとなりとは今ここで往生せしめられていること、即ち正定聚不退の位に摂めとられているが故に必ず夜は明ける、必ず滅度に至る。この無碍光如来の御意をもって、聖人、あかつきになりぬと仰せられたと感ず。

 

あかつきとは、まだ薄暗くても、見えるもの、聞こえるものがある、ということ。

 

 

南無阿弥陀仏