むなしさとともに

悲しみが尽き果てるまで共に在る twitter https://twitter.com/oujouwogosuru?s=09 

無信の自身


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最近はまとまった時間を取りにくいため、ツイッターを使うことが多く、

 

ブログの更新が滞りがちです。まぁ、やることが多くて、昨日はほぼ一日寝ていた感じです。身が疲れているのでしょうね。

 

歎異抄聴記は非常に難しく、遅々として素読が進みません。

 

なので、今日は徒然なるままに書いてみます。

 

念佛にまで成り下がって下さった大悲。

 

念佛にまで成って下さった如来が方便法身と云われる阿弥陀如来であると僕は感じています。

 

本願とか如来とか大悲とか法話では色々お話をされますが、遠いのです。

 

 

自分から。距離があります。

 

 

自力は捨てられません。ある意味、自分のすべてであります。しかし、万劫の仇であると如来は観ておられます。その心で流転してきたのだよ、と。

 

自力は捨てるのではなく、廃るのです。

 

南無阿弥陀佛とは、今ここで自身が称え、聞こえるところのお念佛のほかに南無阿弥陀佛などありません。本願もありません。大悲もなく、如来もありません。

 

この一声のお念佛のところに本願が顕現し、大悲が躍動し、如来が喚びかけて下さり、諸仏の歴史が突き動かして、南無阿弥陀佛と念佛を永久に称えない者にお念佛が現れて下さるのであります。

 

この大悲の念佛がどうしても自力を捨てることができず、世間的な喜びに埋没し、抜け出す気もなく、抜け出す力もない者のためでしたか、と知らしめられた時、摂取不捨の利益に与るのであります。

 

そのときを以て往生決定、現生不退の身に摂め取られる、というのが真宗の眼目だと思うのです。

 

むなしさとともに、というタイトルでブログを続けていますが、当初は、むなしくない、だったのです。

 

それをむなしさとともに、に変更したのは、自分独りの問題には終わらないのだなと思うからです。

 

ともに、とは、共にであり、友にであり、伴にであり、倶にであります。

 

つまり、もろともに、ということです。

 

もろもろの衆生とともに、いしかわらつぶてのごとくなるわれら、というひらけが往生の信心が啓いて下さる道だと思うのです。

 

僕は今38歳です。あとどのくらいいのちがあるかはわかりませんが、お念佛という如来の直説法を身に蒙り、

 

無限なる大悲と透徹の智慧に耳を傾けていきたいと思います。

 

たとえ明日いのちが終わっても、特に思い残すことは何もありません。凡夫でありますが、すでに方向は与えられているので、何も問題ありません。決定往生せしめられる、その響きが今ここに称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛です。

 

南無阿弥陀

 

 

歎異抄聴記⑤所行能信

われわれのとなえる念仏もまた、所行におさまり、われわれがとなえたからからといって、やはり能行ではなく、たとえ、信以後にとなえたからといって、やはり所行である。能行というわけにはいかないのである。これは真宗学としては、もっとも古い真宗学である。(歎異抄聴記p62)

 

自分の仕事は主に経理をしていますが、財務ともう一つ別の仕事も担当しています。3月が決算なので、この時期が繁忙期です。

 

小さな会社で働いているので、決算業務だけに集中できるわけではなく、同時並行で期日のある複数の役割を果たす必要があります。

 

そういうわけで、平日はこのようなことを思索する時間がありません。

 

しかし、ふと念佛を申すことがあります。

 

やはり、所行なのであります。不可逆的に、所行です。これを如来回向とか諸仏称名と表現するのであろうと思います。

 

自分の心の乱れ、身の有様、現実の生活を省みたとき、無有出離之縁であります。常没常流転、助からぬ身であり、心であります。

 

つまり、仏の名を称える、仏の教えを聞信するような可能性はゼロなのです。

 

このゼロは無限にゼロのままであり、イチになることはありません。無限にゼロなのです。つまり、全く変わらない、変われないということ、仏法を受け入れ、身を通して実践することが全くできません。

 

どれだけ聞き、どれだけ実践しても無明、我執から生起した身を具足している以上、自分という思い、自己中心性は解決できないのであります。

 

ここに南無阿弥陀佛、と我汝とともに居る、心配しなくていい、そのまま念佛してこい、我が必ず汝を我が浄土に往生果遂せしめる、我が名を称えよ、と煩悩具足の心身を透過して今ここで、自分に念佛が聞こえてくださる。

 

法然聖人は声に尽きて決定往生のおもいをなすべし、と仰せになった。

 

親鸞聖人は専ら行に仕え、ただこの信を崇めよと仰った。

 

有縁の先生は常に仰る。今ここで聞こえてくださる一声一声がタスケルタスケルの仰せ、念佛は聞きもの、この南無阿弥陀佛に助けられるよりほかに道がないじゃないか、と。

 

お念佛は常に如来回向。この南無阿弥陀佛に助けられるより道なし、と所行の法を所行の法によって信じ能わせしめられる、このことを所行能信と仰るのではないだろうかと僕は思う。

 

自身の言葉で表現するならば、

 

お念佛を称えている気がしたが全くの見当違いだった。諸仏称名の歴史、釈尊のお勧め、阿弥陀佛の勅命によって、ようやく今のここに助からぬ身のまま必ず助けてくださる南無阿弥陀佛が聞こえてくださるじゃないか。聞こえて下さる常に今ここの南無阿弥陀佛のほかに如来もなく本願もなく、大悲もない。

 

念佛のおすがたまでとってくださる無限大悲に摂取され、迷いの凡夫のまま念佛往生せしめられさせて頂きます。

 

僕自身は僕の生存と娑婆世界に対して特に何も期待していません。生きなば生きれ、滅ぶなら滅べ、特に問題はありません。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

雑記

忍耐が試される場面が続いている。

 

正直、かなり理不尽な事象であるし、腹が立つし、イライラする。

 

 

ただ、ふと考える。

 

 

この事象は何なのだろうか?と。

 

 

立ち止まると考えざるを得ない。

 

立ち止まると、掘り下げる。

 

掘り下げるとは、思考やふりかえり、或いは、課題が浮かんでくるということ。

 

課題が浮かんできたなら、具体的にどう対応していくか、に移行できる。

 

いつまでに、何を、どう対応していくかが明確になれば、あとは、ただ、やればいい。

 

これは社会的な事象におけること。

 

 

 

一方で身の事実、或いは、精神的限界は確実に超えられない一線である。自分では、全くどうにもならない。手も足も出ない。

 

生まれる、年をとる、死ぬことなどがこの領域のこと。つまり、社会的な事象と次元が違うということ。

 

どうにもならないことを、どうにもならないものと観るのが正見だろう。

 

ここは娑婆、自身は凡夫。お互いにどうにもならないものを抱えているのだなとしみじみ思う。

 

ここに光明が至って下さっているから、見える。暗がりでは、何も見えない。

 

光は見せるという作用を持っている。作用のところに光を見出す。その光を信頼する。

 

その光とは南無阿弥陀佛、智慧の念佛、信心の智慧であろうと思う。ここには、確かに帰る場所がある。帰る場所には、いつでも、常に自分を待って下さる大悲の方がいる。

 

南無阿弥陀