むなしさとともに

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煩悩を摧いてくださる光

解脱の光輪きはもなし

光触かふるものはみな

有無をはなるとのべたまふ

平等覚に帰命せよ

 

輪の字の左訓

くだく。解脱といふは、悟を開き仏になるをいふ。われらが悪業煩悩を阿弥陀の御光にて摧くといふこころなり。

 

光触の左訓

光を身に触るるといふこころなり。

 

親鸞和讃集 名畑慶順師 p16岩波文庫

 

昨日、ZOOM勉強会でネットでご縁のあった方と初めて少しお話した。

 

生きづらさを感じておられるようであった。

 

喜びを握り、反芻しようとするのは、誰もが通る道であります。

 

なぜなら今まで経験してきたものと質が違うからです。

 

しかし、喜びは薄れていきますし、喜びに沈めば沈むほど見失っているものがあります。

 

この【見失っているもの】を改めてたずねていくのが往生であろうと感じます。

 

うぬぼれも自己卑下もともに慢というのだと唯識で仰られます。

 

この和讃に、阿弥陀の御光にて煩悩を摧いてくださるのだとあり、かつ、この光は身に触れる光であるとあります。

 

煩悩は摂取不捨という阿弥陀佛のはたらきを妨げることはできない、とのおさとし。

 

これは随分自分も苦しんだし、今も残滓があるが、自分で自分の存在や人生を受け取ることがどうしてもできぬ、のです。

 

自分で自分を変えることができない。そして、理不尽なこと、不可解な関係性を断つことがどうしてもできない。

 

恨んでいるのです、結局。自分であることを。これをアジャセといい、未生怨という。

 

しかし、阿弥陀佛は、それは既に知っているといい、光明無量と仰せられる。

 

聴聞とは、佛が今ここに居る自分に何と仰っているのかを聞く。

 

我が名を称えよ、念佛せよ。

 

釈迦牟尼佛、諸佛のすすめを確認する。

 

無量寿佛の御名をたもて。

 

今ここに助からぬ身を具足したまま、念佛を称え、聞く、という具体的行に極まるわけであります。

 

重ねて申します。

 

今ここで念佛を称え、聞く一つ、この声聞く一つです。

 

いつでもどこでも小さな声で念佛聞いて下さい。

 

その声は大悲から出発し、今ここに至り届いて下さる大悲のはたらきそのものであります。

 

 

念佛の信心に助けられて、訳の分からない生活をしたまま、往生せしめられるよりほかに道あることなし、であります。

 

例外なく、どんな衆生にもあまねく、如来の光明は無辺に届いている。

 

しかし、光は光を見出した者の上にはじめて光としてのはたらきを現す。その御心が平等であり、大悲の御心であります。

 

お念佛は出発点であり、終点であり、大地であります。迷ったらそこに帰ればいいのです。そこに迷いの衆生を目当てにはたらく本願念佛の大悲が常にすでにおわします。

 

 

 

南無阿弥陀

平凡に歩みを進めていくだけ

今、帰りの電車の中です。

 

最近は更新が滞りがちですねぇ。何となく書きたいことが思い浮かばないのです。

 

僕には殊勝な心がないので、誰かを教化したいという思いがありません。

 

信仰や哲学を希求する、必死になって探すというのは、時節によると思うのです。

 

段階を経なければならない。喉が渇いていない人は水を飲みたいと思わぬのです。

 

いくら水を差し出したところで、水の湧く場所を教えても関心の外です。

 

飢えなければならない。

 

何に飢えるのかというと、自分はなぜここまで苦しまねばならないのか、自分の生存に何の意味があるんだ、ということ。

 

僕がなぜ4歳から無意味さに苛まれたのかはわからない。そして、今もむなしさと本当は何の意味もないことに潰されそうになるけれども、葛藤してやり過ごしているわけで。

 

煩悩具足という事実は自分の力ではどうしようもありません。全くの無力です。縁に催されれば動かずにはおれない。

 

如来とは智慧であり、光であります。

助からぬ者を助からぬと知らしめる光であります。光がまします故に助からぬ者と認知させられるのであって、認知するのは自分の力ではありません。

 

今はただ智慧の名を称え、聞くだけで、他には何もありません。

 

自分は自分をやる、それだけです。意味や意義などありません。今はそれで満足しています。また、満足できなくなっても一向に差し障りはありません。

 

無碍の光明は常に今ここに貫き穿ち至り届いて下さっているからです。

 

南無阿弥陀

南無阿弥陀佛と聞かされるばかり

浄土真宗聴聞に極まるといわれます。

 

聴聞とはお寺へ足を運び、お説教を聞く。寺を出たあとに生活を通して説かれた法を確かめていく、吟味することです。

 

(そんな簡単に信じることなどできない、託すことはできない。僕はそうです。確かめる必要がある)

 

つまり、聴聞の場にはひとが集まるのです。

 

しかし、コロナ禍においては、感染リスクが高まるため、積極的にお寺へ行き難いです。ただし、聞法会を今も開かれるお寺については、推奨されている対策を講じて継続されておられることを、付しておきます。

 

代替としてZOOMを用いた勉強会もありますが、やはり足を運び、お座に身を置いて教わることが多いと感じること、或いは場の空気感を感じにくいことから、自分は苦手であります。間合いがとりにくい。

 

こうなると、なかなか聴聞できない、となりますが、さて、本当にそうでしょうか。

 

 

お念佛がありますね。

 

 

善導大師は本願念佛は行住坐伏不問時節久近であると仰る。

 

松並松五郎という妙好人如来の直説法といい、木村無相さんも一声一声が如来のおでまし、一声一声が浄土真宗であると詩を残しておられます。

 

では自分は念佛を申すのかというと、ほとんど申しません。ふと念佛を申す程度で、自分には貪りしかないのだなと知らされるばかりです。

 

念佛は聞かされるもの、本願の念佛を聞かされるばかりで特に何もありません。

 

特別な心境はなく、ただ、ふと念佛を称えさせられ、聞こえて下さるだけ。

 

これで十分なのであります。なぜなら、自分には佛の名を称えようという心が全くないからです。

 

十七願、諸仏称名の願いが今この身に至り届いて下さり、称えさせて下さるものだと身にしみて思うのであります。

 

信心は決定心、無擬の心であるならば、如来さんの御心が無擬であればよい。自分の心などは当てになるものではないのです。

 

自分の心に用事がなくなる。散り乱れておろうが、微塵も関係ない。如来さんが今ここに在して、お前を必ず往生浄土せしめるという勅命が今ここで称えさせられ聞こえて下さるところの南無阿弥陀佛と聞いております。

 

いよいよ南無阿弥陀佛ばっかりです。今ここで称えさせられ、聞こえて下さる南無阿弥陀佛に助けられるだけです。

 

浅ましい自身の姿を見せつけられるのは、見せつけて下さる智慧と大悲が在すからであります。その智慧と大悲の名告りが南無阿弥陀佛。

 

助からぬ汝を助けるの仰せが南無阿弥陀佛。

 

即ち南無阿弥陀佛が在すので、心配はいらぬのであります。

 

不退の船に乗せられたならば、その船が向かう処に向かうだけで、乗客は船に乗せられておけばいい。不退の船は必ず彼岸へ着岸する。

 

南無阿弥陀