むなしさとともに

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現実へのかかわり

先生から【聞法会を開きなさい】という言葉をみちのかいの時に頂いて、ずっと考えていました。

 

僕は僧侶ではないので、教学がありません。

 

今、パソコンを持っていないので、ZOOMで場を開くのもまだその時ではないと感じました。

 

ただ、想定しないわけではありません。いつかこのブログを見て下さっている方と輪読会でもできればいいなと思います。誰か来てくれるのかな。知らんけど。

 

 

では【聞法会を開きなさい】という言葉に対して、自分はどうかかわるのかを考えた結果、自分が今までやってきたこと、学んできたことを駆使して、現実に向き合うという答えに行き着きました。

 

つまり、自分なりの身業説法です。

 

【現実】とは、会社内での話です。組織に属しているので、承認をとりました。実際に他部署の方のサポートに介入するつもりです。

 

僕自身の業務に【サポート】が加わることになります。面倒でありますし、これが評価されるとも思わないです。

 

でも、やはり、何かをせずにはおれんです。

 

手を動かし、額に汗をかき、骨を折らねば。

 

 

当事者になる、なるための準備はできました。結果を出す自信はあります。

 

そのために、時間をかけ、実践し、学んできました。

 

自分の信心が生きたものならば、能動的なものを展開するはず、先生から、念佛の信は能動的信であると聞いています。

 

往相回向の信は、還相回向、つまり能動性をを内包している。

 

変化という結果を出したいものです。

 

南無阿弥陀


22/5/15追記


現時点で、まだ具体的に、聴聞の場を開く、あるいは、職場で場を開くということには至っていません。


ただ、不思議なのですが、最近は周りの人に助けてもらったり、気を遣ってもらったりすることが多いので、自分もできることを周りに返したいと思っています。


それは、眼差しであり、言葉であり、具体的なやりとりをすることであったり、色々な手段があります。


まずは、自分が聴聞し続けること、念佛せよの仰せに従い南無阿弥陀佛を聞くことを続けます。


教化の主体は常に如来である。僕らは教化される客体なんだ。そして、最も教化されたひとを通して、教法は弘まるのである。


和田稠先生は、著書で仰っておられます。


ほとけさまに教化されることこそ大事なことであり、十九願の諸行も生かされるのだと思います。


教化の主体は常に如来である。


和田先生のこの言葉は金言であると、時々立ち返ります。

 

 

当事者になるということ


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この一ヶ月何となく気になっていたことが、【当事者になる】ということでした。 

 

どこでも、よくあることだと思うのですが、口では立派なことを述べる。あれが悪い、あの人が悪い、と。

 

うむ、それはわかった。それで、あなたはいつまでに、何を、どうするのですか?と問うと絶句する。誤魔化して、去っていく。

 

文句は言うが何もしない。傍観している。

 

誰かが何とかしてくれる、と思っているのか知らないが、そんなことをしていては、ゆでガエルになってしまう。

 

時間や環境の変化はインターネットによってものすごく早くなった、これからもさらに加速していく。

 

今までも継続、一貫して、具体的に行動をしてきました。コロナ対策、財務会計管理会計、業務支援にしかり。

 

なので、今まで教わり、実験してきたところの傾聴、コーチング、グループウェア、プラットフォーム、DXの経験を動員し、物事に関わろうと思っています。

 

上下ではなく、水平の関係。教導ではなく、共同であり、協同。

 

コーチングの語源に【伴走する】という意味があります。これは、伴奏でもいいかもしれません。

 

そして【大事な人を目的地に運ぶ】という意味もあります。面白いですね、この語源は。

 

僕は真宗の教えを聴聞している、とは公言していないので、社内でそれを知る人はいないし、話すつもりもありません。

 

ただ、人を育てる、自分が次に進むためには後継を育て、自立させることが必要だと思います。僕の場合は、マンツーマンで最低3年必要です。

 

物事の関連、意味、現実のオペレーション、役割を体験的に学ばなければ、知識に留まります。やはり、血肉にせねばなりません。体解という学びです。

 

そして、自分との違いを認め、相手を認める、相手には意思決定する力があると信じることが前提に在る必要があります。

 

人づくりには、時間と忍耐を要します。しかし、人づくりを疎かにして、ものづくり、サービスの創出はできない、と思うわけです。

 

僕は32歳のころ、10ヶ月間、無職になったことがあります。そのときに、自分が労働を通じて社会と接点を持ち、そのことで支えられていたことを身をもって痛感しました。 

 

世界から取り残された、置き去りにされた感覚。

 

なので、まだ暫くは社会に身を置き、労働者として社会に関わる所存です。この間、何をするんやといえば、ひとこと。

 

ただ一隅を照らす、これのみ。

 

目の前の人、縁あって共に仕事する人々と共に汗をかき、手を汚し、同じ釜の飯を食べる。そして、考えて、かける言葉を練り、眼差しを配り、葛藤する。

 

念佛とは全く関係ないように見えるかもしれませんが、実は全て念佛です。

 

念佛の具体的表現、念佛の中身、内実、即ち大悲です。

 

僕における真宗の表現を仕事や社会との交わりの中で探求します。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葉は落ちるもの

一段と寒い気がしました。

 

木々には残り僅かな葉がついており、それらも紅葉が進み、やがて風に吹かれ、地に落ちる感があります。

 

葉は落ちればいいのだ、とそう思っています。これは循環の一部であり、止められることではありません。

 

憎むことでもありません。不可逆的な流れというものがある。この流れのことを諸行無常という。鐘の音がやがて聞こえなくなっていくのは梵鐘の振動が止んでいくからでありましょう。

 

移り変わっていく、止められない流れがある。その中で自分も時を過ごしている。流れの中に居る。

 

生死流転は人間である以上は避けることができない。

 

ただし、生死流転を生死流転と知る、気付かされるということはある。

 

それが生死流転を生死流転のまま横様に超えるということ。

 

本願のはたらきのことを横超という。

 

人間には横超という道が回向されている。他力回向によってともに助けられるばかりであります。

 

南無阿弥陀