むなしさとともに

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暫く休みます

最近はとても仕事が忙しいため、更新も滞っています。 

 

その中でも時折見に来て頂いている方がおられるみたいで、ありがとうございます。

 

僕が言いたいことは、一つだけです。

 

 

わが名を称えよという如来の常の仰せに従い、今ここで念佛を申すだけであるということです。

 

 

残念ながら信心決定しても煩悩具足のままです。信心決定という言い方が適当かわかりませんが、無疑である、疑おうが疑わまいが、大悲が南無阿弥陀佛にまで成って聞こえて下さる。それだけで満足です。

 

心境が開くかと思うのならば、そんなことはありません。

 

聴聞しない人と全く同じです。

 

慶びは一瞬です。そして、慶びに留まってはだめです。自分の殻が閉じるからです。

 

僕は藤谷秀道という先生の影響を大きく受けています。先生の言葉をお借りするならば、煩悩は絶え間なく起こるけれども、それらに溺れない。立ち返るものがある。

 

それが念佛であり、信心である。具体的にいえば南無阿弥陀佛である、こういう表現になります。

 

身体が疲れると、本当に何もかも捨鉢になります。嫌になるというか、いつ人生が終わってもいい、というか。

 

個人的にはいつ終わっても特に問題はないのですが、まだ見届けたいことがあるので、それが終わるまでは何とか生きねばならないと思います。

 

 

このような奇妙なブログをどのような方がご覧になっているのか、僕には分かりませんが、お念佛ひとつです。

 

具体的に念佛を申す、ただこの一行をたもつ、死ぬまで相続する、ということで事足りるのであります。

 

恐らく、6月まで忙しいので、暫くお暇します。何かあればコメント頂ければ幸いです。ツイッターは続けます。

 

それではまた。

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

苦悩の起点 善知識に遇えないということ

結論をまず先に。

 

善知識はいないのではない、自分に善知識を見出す力がないから、見えない。

 

時節到来ということがある。機縁が熟して露わになる、気がつくということ。

 

これを自分なりに表現し、苦悩の起点の考察を終わる。

 

僕は空虚であったので、意欲がなく、成りたい職業もなく、行きたい進路もなく、成りたい人間像も持ち得なかった。

 

ただ、大学四年の頃、ある企業の内定者研修があり、そこで鍵山秀三郎という人を知った。

 

僕はこのとき、初めて鍵山先生を知ったのだが、身体に稲妻が走ったのを覚えている。

 

鍵山先生がグレイチングを掃除されている映像を見た時だった。

 

何だ、このひとは。このひとは本物だ、と。

 

本物とは、目指すべき方向であります。初めて、この人のように、あたたかいひとになりたいと思った。そして、道を求めるということが始まった。僕の場合は、十九願、諸善をひたすら求めるということ、だったのかもしれない。

 

その後、鍵山先生の本を読み、できる範囲で掃除と複写はがきに取り組みつつ、仕事をしていた。実際にお会いできたこともあった。

 

若かったので、不良債権になる前に、会社の決裁を得た上で、裁判所を通じた法的措置をとったり、東京のお会社に取り立てに行ったりしたこともある。経理の仕事は座って計算するだけではない、そういう泥臭いことにも身を通してきた。

 

誰も手を挙げないので、倉庫に出向し、経理の仕事をしつつ、複数の業務を並行で対応したこともある。

 

倉庫の不用品を交渉し、有償で引き取ってもらったりもした。

 

そして、仕事が終わって、専門学校に通い、資格も得た。

 

若かったからできた、と言えるし、それらが無駄だったとも思えない。今の自分に大きい影響を与えていることは間違いないとも思う。ただ、その一切は雑行であった。

 

22歳から32歳まで僕はほぼまったく聴聞をしなかった。する気が起こらなかった。朝の勤行もしないし、念佛もしない。

 

なぜか。

 

僕は、やればできると思っていた。やれば鍵山先生のような人間になれると思っていた。しかし、それは間違いで、自分の抱える迷いはそんな軽いものではなかった。

 

まぁ、本当のところは、もう目指すべき方向さえも見失っていました。別に助かりたいとも思わなかったし、ただ、何とか自分で生きていかなければならない、と思ってガムシャラにやっていました。そこで、転職をはじめとして、複数の挫折経験が訪れ、ボロボロになるわけです。

 

挫折とは誰もが避けたいものです。しかし、これもまた機縁が熟せば避けることはできません。ただ受けていくしかありません。

 

 

そして、本当は自分以外の誰かになる必要がなかった。なれもしない。そのことを知らされる日々を今過ごしています。

 

そして、そのことに僕は満足しています。

 

ほとけさま、如来、とりわけ、僕は大悲ということが多いが、これはおはたらきを指してそう言うのであって、そういう実在があるのではない。

 

如来智慧なり、光明なり、と親鸞という人はいう。

 

主体と客体、照らす光と照らされるもの。

 

主体は常に法であり、自分は常に客体である。しかし、法は決して機を離れてはたらくものではない。

 

汝凡夫よと照らされるところに、先立って照らす光源がある。

 

その光源からよきひと、善知識が現れて下さる。

 

実は、真宗に縁がない方であっても、鍵山先生のように道を求める縁を下さるひとも善知識なのだと思います。

 

ただ、諸仏と言う場合、その人が勧めるのはお念佛ただ一行であります。これは阿弥陀経に教えられていることです。

 

まとまりがなく、長くなってしまいましたが、生きていれば色々なことがあります。

 

腹が減った人は食べ物を求める。

 

どのひとも精神的に飢えねば道を求めるということは起こらないのかもしれません。

 

飢えを何かで誤魔化してはいけない。凝視し、耳を澄まし、足跡を捉える必要があります。

 

 

 

南無阿弥陀

 

 

 

 

苦悩の起点 比較

はや3月ですね。時の経過が驚くほど早いです。

 

4月から5月末まで繁忙期に入るので、体調も含めて引き締めていく必要があります。

 

さて、僕の苦悩の起点の一つに、比較があります。このことを僕なりに考えます。

 

僕は、物心ついたときから、むなしいということを抱えていました。何をやってもむなしい。意味がわからない。意味がわからない故に主体性がないわけです。

 

主体性がない、とは、元気がない、ということです。

 

小さいときから、選択を迫られる際にこう答えてきました。

 

どっちでもいい、と。

 

僕には妹が居ますが、彼女はいわゆる器量がよく、コミュニケーションも苦手でなく、活発なパーソナリティです。

 

小学生から通信簿があり、それを並べられた時、明らかに僕の方が平凡なわけです。3段階評価で、オール2のような有様。

 

下手したら1が混ざっているような。

 

まぁ、親ならなぜこの子はこうなのだろうか、と感じただろうなと思います。

 

ただ、幼い頃は語彙もなく、気持ちを表現したり、言語化できないわけで、自分ではどうしようもありませんでした。

 

学ぶということが、選択肢を増やすこと、だということが分からず、無気力な日々を過ごしていましたし、ゲームばかりしていました。

 

推薦試験に落ちる、ということを通して学ばざるを得ない状況に陥り、短期集中的に勉強して、高校、大学へ進学しましたが、これは非常に歪なものであったと自覚します。

 

ただ、ある意味、歪なかたちをとらざるを得なかったのも事実です。どうしようもなかったのが本音です。

 

比較とは、モノにおいて用いるべきもので、有情に用いるべきものではない、と考えます。比較を人にも用いるので、苦しみ、苦しめると考えます。

 

 

なぜ比較すべきでないかといえば、有情はすべて異なるからです。なぜ異なるかというと、業が違うからです。

 

業とは行いでもあり、生活における傾向性も含みます。傾向性とは、なんとなく、ということです。

 

なんとなくとは、正しいと思うもの、心地よいと思うものを選ぶ基準です。

 

他者から見れば何の価値も感じられないもの、出来事が自分にとっては忘れられないもの、かけがえのないものであったりするわけです。

 

そして、それは比較できるようなものではないし、その人にしかわからない、感じられないものであったりします。

 

パーソナリティとは無二のものであり、有情、衆生とは二つとして同じものはなく、すべて異なれども唯一性を備えた存在だと思うのです。

 

能力は違います。努力で勝ち得た能力もあるでしょうし、努力できることも能力の一つだと思います。

 

ただ能力が届かない領域がある、努力が至らない事象がある、という現実があります。

 

僕らは無限ではない、ということです。

 

老病死を具足した生を受けている、有限なる存在が、衆生ということであり、人間であるということだと感ずるわけです。

 

しかし、比較をやめることができない。

 

正確にいえば、比較するということしか尺度がない、智慧がないから、やめることができない、故に苦悩は絶えない。

 

結局、真の智慧がない、ということが苦悩の根に存在するのではないかと察します。

 

最後に、よきひとに遇えないということを考え、苦悩の起点を終えたいと思います。

 

南無阿弥陀