むなしさとともに

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ふりかえり

6月に入り、ようやく繁忙期が終わりました。

 

3月からなので、足掛け3ヶ月くらいでしようか。ようやく落ち着きつつあります。

 

このブログは、むなしさとともに、という名前です。主な内容は、真宗について、であり、思いますことを綴っています。 

 

始めたのが2015年11月1日なので、何とか6年半続いてきました。なので、2015年からが本当の意味で聴聞が始まったということがいえます。

 

この間も色々なことがあり、そして、過ぎ行きていきましたし、過ぎつつあります。

 

改めて考えますと、僕はなぜか仏教に関する先生運みたいなものが強く、良縁に恵まれてきました。

 

全く思わぬところから頂いたご縁が続いており、2015年以降ほぼ毎月、聴聞の縁を頂いています。

 

この中で、特に思いますのは、先生方のおすがたを頂いているなぁと思うことです。

 

先生がお念佛されているすがた。

 

先生の自坊をお借りして研修会を開いた際、先生が掃除してくださっているすがた。

 

こういう教化を身業説法というそうですが、そういうものを感じますし、生活の中で思い出すことがあります。

 

僕は僧侶ではないので、真宗の教学はありません。

 

ですが、先生方、釈尊七高僧親鸞聖人が仰っているのは、ただ念佛して弥陀にたすけられなさい、汝ほかに道あることなし、ということだと思うのであります。

 

道なし、と、道あることなし、は違います。後者が自分の正直な有様です。

 

最近は、殊に無碍光ということを思います。

 

阿弥陀佛の光明に無碍のおはたらきがなければ、今ここに居る自分にまで至り届かなかっただろうと思うためです。

 

無碍とは障りなく助ける、ということ。

 

先生いわく、帰命尽十方無碍光如来の尽とは、最後の一人まで照らすということ、すなわち、この自分にまで至り届いてくださる南無阿弥陀佛であるということ。

 

念佛の信心、行信を回向せしめられることにおいて、この自分には全く念佛申す心、佛様の御名を称える心が皆無であることを知らしめて下さります。

 

そして、聴聞しようがしまいが、全く変わらない凡夫であるということを教えて下さる。

 

凡夫とは存在であり、実存です。実存とは十方衆生だと考えます。われらであります。

 

われらに通底するのは、苦悩の群萠ということ。業縁の存在、常没常流転のかよわい存在であるということであり、それがわれらの本質であり、平等ということを思うことです。

 

まとまりがなく、申し訳ないのですが、やはり具体的にお念佛を申すということ、この一行に帰る、喜び、後悔、罪の感覚、身の有様、自分の状態状況にかかわらず、

 

専らわが名を称えよ、と仰せ下さる南無阿弥陀佛に帰ることこそ、大切なことである、と教えられる気がいたします。

 

南無阿弥陀

 

現実への向き合い方 評価について

今年は全然筆が進まず、遅々としていますが、最近思いますことを。

 

僕は勤め人なので、企業に属しています。企業は組織なので、様々な方がおられます。部署間の利害関係、人間関係、指示命令系統や役割と責任の曖昧さ、色々な要素を含んだ組織です。

 

様々な方がおられるので、当然、考え方が違います。考え方が違うので、一つの出来事に関する認知も異なります。

 

深く考える方もおられれば、流してしまう方もおられます。

 

努力、骨折りが必ずしも、評価として認められるわけではありません。僕が属してきた組織における評価基準は、得てして評価者のイメージが多くを占めます。

 

つまり、被評価者と評価者の関係が良好であれば良い評価が、あまりよくなければ日の目をあびない、こんな感じです。

 

まぁ、小さい組織での経験がほとんどなので、大きな組織、立派な組織は違うのでしょうが、現実はなかなか厳しい。

 

ここからが問題です。

 

必ずしも評価されないのであれば、自分も何もしなくても良いのか、ということです。

 

不平不満を口にする人は多い。言葉は大事なものですが、ある意味、軽いのです。そして、相手に伝わりやすい。

 

不平不満は解った。じゃあ、あなたはそれに対して、どう向き合いますか?いつまでに、何を、どうしますか?がより重要だと思うのです。

 

行、具体的な動き、言葉を伴った活動であります。行は表層でありますが、言葉と違ってすぐに相手に伝わりません。準備、段取り、利害調整も必要です。また、案外、やったとしても伝わりにくい、当たり前のことと流されがちです。

 

 

ならば、やはり何もしなくてもいいじゃないかと思うかもしれせんが、やっぱり、だめだと思うのです。

 

評価されるか否かは分からないけれども、実際に現実が変わるわけです。もともとAだったが、実行により、BやCになる。これが面白いわけです。

 

 

 

 

体解、あるいは、再現性ということに深く繋がります。

 

体解ということは、深い学び方なので、容易に忘れません。身を通す、身に引き当てるということは、当事者になるということです。

 

また、経験を血肉化するので、応用が利きます。そうすと、同様のことを別の形でも再現できるわけです。

 

僕は随分、評価ということに難儀してきたのですが、最近、こう思うのです。

 

他者を変えることはできない。

 

ただし、自分には変えられること、変えられないことがある。変えられることを柔軟に考えてみよう、と。

 

大人になりました(笑)なので、評価云々ではなくて、やれることをやろう、というスタンスです。評価は、まぁ、もらえるならもらいますが、それよりは、行ずることに力点を置きます。

 

なので、批評家ではなく、当事者の一人として現実にかかわるということを大事にしたいです。

 

それは、非常に地道なものでありますが、学び方として、深い学び方であろうと思います。

 

南無阿弥陀

 

 

もう一度出発する

おはようございます、こんにちは、こんばんわ。ナナシです。

 

まだ完全ではないのですが、マイルストーンを迎えたので、今、考えていることを少し書いてみたいと思います。

 

ここは娑婆であり、決して浄土ではないし、浄土にもならない。

 

自分は全くの凡夫であり、本当のことは何一つ分からない。

 

これが正直な気持ちです。

 

色々な楽しみ、鮮やかなこと、感動すること、沢山のことがありますが、一切は夢幻の如し、月日は百代の過客の如しで、

 

みな過ぎゆきてしまいます。まず、ここに一つのむなしさを感じます。

 

退転退屈という問題です。

 

時間は不可逆であり、諸行無常は道理である。道理とはその領域に存在するものを通底するもので、何一つ無常を免れることはできません。

 

心境や境地も然りで、思えたり思えなかったりすることは縁によって生起するものなので、大地にはなりえません。

 

一方で、いくら佛との値遇を果たしたとて、自分が纏うものは煩悩具足の凡夫の身です。

 

身とは二面性を持ちます。

 

一つは、自身。

もう一つは、自身の所属する世界です。

 

自身は、事実であり、現実です。弱肉強食の身であり、有限の身であり、縁起の身です。

 

悲しいのですが、この世では、生きている以上、必ず食べねば生きることができません。そして、座れる椅子の数は限りがあるので、競争を免れることはできません。

 

決断と行動を要求されますが、そもそも自分がなぜ生まれ、なぜここにおり、何をなすべきか、どうすればいいのか、全くわからないのであります。

 

これは装飾しているわけではなく、本当にわからないのです。僕はこういう存在の有様を無明というのだと考えています。

 

無明はひとごとではない。今、現在の自身の偽らざる現実です。

 

存在の問題は、努力や根性が通用しません。次元が違う、ということだと思います。

 

つまり、別次元の問題を解決できると誤認し、行に励むのを十九願、二十願的発想ということができます。

 

畢竟、自力であります。

 

自力の表層は、自己信頼だが、根本には躊躇がある、その性質は未決定、不安ということです。

 

親鸞という人は、死ぬまで迷いを離れることはできないんだ、と教えてくれます。

 

じゃあ、どうすればいいのだ、と。

 

ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし、本願に助けられるよりほかにみちあることなし。どの書物にも、このような御心を感じるのです。

 

念佛を称えつつ聞くことにおいて、自分には全く佛の御名を称える心が皆無であることを知らされる。

 

聞名の念佛。

 

わかろうが、わからまいが、佛の仰せに従い、今ここで称えさせて下さる南無阿弥陀佛を助からぬ自身において聞く。

 

ここに何度も立ち返る。迷えば帰り、帰っては、また離れる。離れれば、また帰る。

 

こういう相が具体的現実的な念佛往生のすがた、おはたらきであると思われます。

 

いずれにせよ、大悲には底がない。

 

助からぬ身、浄土ではない世界、娑婆にはたらく底なき大悲、いよいよ聴聞をせねばならないと思います。

 

ではまた。

 

南無阿弥陀