むなしさとともに

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善知識

聞法し続けていく

僕自身の聞法における起点の師は、藤谷秀道先生です。 その前に、出会いがなかった訳ではないのですが、藤谷先生とのご縁がなければ、再び聴聞に赴き続けていく、ということはなかったのではないかと思うのです。 まだ明らかにせねばならないことがある。 十…

横截五悪趣悪趣自然閉

「横截五悪趣悪趣自然閉」といふは、「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり。竪は…

念佛往生とは何を指すのか?

大無量寿経に説かれる阿弥陀佛の本願のうち、第十八番目の本願について、法然聖人は王本願である、とされ、念佛往生の願であると仰せられた。 親鸞聖人は、更にこの本願は、信心まで回向して下さる本願であると顕らかにするために、更に、至心信楽の願と仰せ…

宗祖親鸞聖人より③本願に帰す

親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり (歎異抄第二条) この言葉は道を定めて下さるお言葉である。 よきひとの仰せをそのまま頂き、念佛するよりほかに道あることなし。 この…

自覚の信

我々には機の深信が大事である。万死に一生をかけて一歩前進する、これが本願念佛の道というものである。 一応信心決定しても、その信心が自覚の信になることが容易でない。親鸞聖人は法然上人にお遇いなされて一応お解りになったのであろう。 法然上人のお…

如来の本願、称名に顕る

天親菩薩の論、註解して、如来の本願、称名に顕る(浄土文類聚鈔親鸞聖人東聖典p412) かたちを必要としないものが、あえて自分を捨ててかたちを選んで下さったのが称名である。 あの人は誠実な人だ。 何を以てあの人を誠実とする? 彼、彼女はどんな人にも礼…

維摩経の一説

大乗仏典7 維摩経 首楞厳三昧経 p79中央公論社より 病気の根源 その病の根本とは何か。対象をとらえることが根本です。対象としてとらえられたものがある限り、そのものが病の根本であります。何をとらえているかというと、全世界(三界)を対象としてとらえ…

名をもって接したまう

我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に撹入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。(元照律師 弥陀経義の文 顕浄土真実教…

なぜ聞法するのか

真宗は聞くことに極まる、と仰られる。 聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり、と親鸞聖人は教えて下さった。 具体的な衆生とは、僕のことであり、他の誰でもない。他の方は助かった人かもしれないが僕は違う。 助か…

浄土真実の行

大行とは、すなわち無碍光如来の御名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳法海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり(顕浄土真実行文類) 親鸞…

不退の位

摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしませ候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり(ご消息集 親鸞聖人 p590大谷派聖典) 助かるとは、どういうことか。 実は助かる…

大悲を行ずるとは

『大悲経』に云わく、「いかんが名づけて 「大悲」とする。もし専ら念佛相続して 断えざれば、その命終に随いて定んで 安楽に生ぜん。 もしよく展転してあい勧めて念佛を 行ぜしめる者は、これらをことごとく、 大悲を行ずる人と名づく」と。 (顕浄土真実教…

大悲の御声

この一声に如来の血と涙が籠もっている。 今口に称えさせて下さり、 耳に聞こえて下さる、この南無阿弥陀佛を 聞くばかり、と先生は教えて下さる。 不平不満、煩悩だらけで申し訳ないことで ありますが、このまま南無阿弥陀佛に 助けられて往生させて頂きま…

無碍光明破無明闇

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。(顕浄土真実教行証文類 総序の文 親鸞聖人) 無碍の光明とは、われらに一切の要求がない、ということ。翻すと、自分で自分を、他者を真に受け止めることができないのが、汝なのだ、…

聴聞に身を置く

今は六時過ぎ、七時から勉強会があり、向かっている。お香の焚かれている場所に身を置くと、意図せずとも、自ずからお香の薫りが衣服に沁み付いてくださる。先達はこう仰った。仏法は毛穴から入るものだ、と。聴聞に身を置く、穴の空いたザルとも、水の中に…

念佛がはたらいて下さる相とは

とるに足らない会話。掲示を見てくれたこと、好きなドラマを教えてくれること。アドバイスを聞き入れて下さり、具体的に物事が変わる可能性を感じること。 音響忍という言葉もある。何を感受するかは、自分次第なのだろう。 ストロークという概念がある。存…

我能く汝を護らん

南無阿弥陀佛とは、今、ここで、自分を持て余して、どうしたらいいのか、途方に暮れている僕に、我能く汝を護らんと仰って下さる佛語である。 悲しいかな、自分でありながら、自分を始末することができない。だから、浄土に往生させ、煩悩を除き、佛にするか…

今、ここで、大悲を聞く

何時でも、今、ここにいる、自分に南無阿弥陀佛は何を仰っているかを聞くのだと、 先生に教わった。タノメ、タスケルと仰せくださる佛様が南無阿弥陀佛。今、ここに、念佛のすがたをとってまで口から現れて下さる、聞こえて下さるではないか。助からぬ汝を必…

葛藤がないわけではない

迷いどおしである。苦しくて、悲しくて、寂しくて、どうにもならない。これが毎日のすがたである。心が苦しい。光明とは心の光だと先生に教わった。心光という。救いは過去の体験にすがることではない、生きて泣いている今、南無阿弥陀佛はあなたに何と仰る…

恩師がましますこと

報恩講のご縁を賜り、改めて思う。先生がましますこと、とても有難いと。生きた先生のすがた。ひたすら念佛されている後ろ姿。質問したら速やかに、真摯に応えて下さる。先生がいなければ、独りよがりで終わってしまっただろう。念佛に親しむこともなかった…

先達の言葉

先んじて、人の身を生きてこられた方の言葉、法を求めてきた方の言葉に耳を傾ける。その人にはたらく法を感受することで、法の普遍性を確かめる。おぉ、共に大悲がはたらいておられる、と。諸仏護念の益を感ずる。答えを求めるのではなくて、問い続け、求め…

余韻

輪が鳴り、静かに止むまでに余韻がある。微かに音が響いている。それに似た何とも云えぬ残響の中にいる。明日からまた日常が再開する。また勝負が始まる。自分との対峙。沢山の方のお話を聞けて良かったと思う。ともに、凡夫がいる。沢山いる。僕もまたその…

無限なる反復

修道とは、修習。 習とは反復すること、連続することです。 中略 見が連続していくから修道です。 中略 見が修になって見を完成していくわけ です。 中略 最後の修を通して完成された見は成仏 になるのです。信心成仏です。 このように聞くというのはただ聞…

わが名を称えよ

阿弥陀佛の本願は、 わが名を称えよという本願である。 われらからすれば、聞名である。 南無阿弥陀佛を 称えさせ、聞かせて、信じさせ、往生 させ、成仏せしめる。これが他力の おはたらきである。そして、 大悲念佛を通して智慧の信心が発起する。 誓願不…

信の純化と柔軟心の成就

他者を批判し、批評するのは簡単だ。 自分が問題にならず、外ばかり見ている。 しゃべらないのではない。 ただ黙っているのだ。 結果を出せば凡夫は黙る。 結果は待っていてはいつまでも来ない。 結果は準備、動きの果てに成就するものだと信じる。 自分が当…

念佛に極まる

念佛は大悲の相。 相に如来の心も行もこもっている。 もはや自分の心や有様に囚われず、 ただ、わが名を称えよの仰せ、助けずば おかないの仰せを聞き念佛を申す。 この選択本願念佛の一行をたもつ。 念佛から一切の行が溢れてくるが、 一切はわが力で行ずる…

念佛を申す

先生はいつも仰る。 今ここで念佛を申し、耳に聞く。 親鸞聖人、法然聖人は専修念佛、常念佛の お方であった。現在の浄土真宗では、 選択本願念佛を専ら行ずる、 無量寿佛の御名をたもつ、念佛行を軽んじて いる。今ここで口に声に出て下さる お念佛を聞く。…

南無阿弥陀佛

お念佛が今ここに至り届き聞こえて下さる。 ただそれだけで満足だ。わが心身の 有り様に微塵の用事なし。 南無阿弥陀佛

唯信仏語決定依行

親鸞聖人、愚禿鈔にいわく (西本願寺真宗聖典p522-523) 第五には、 唯仏語を信じ決定して行による、と。 第五の唯信仏語について、三遣、三随順、 三是名あり。 掘り下げて確かめる。 親鸞聖人は結局何を伝えて下さったのか? 唯仏語を信じ決定して行によ…

生きた佛法

佛法とは生きたおはたらきである。 それは言葉だけで理解するものではなく、 現実を通し、身を通し、体解(たいげ) すべきものである。 お寺、僧侶を経済的価値観で計っては ならない。経済的価値観は、 必ず我が身にふりかかる。必然的に。 因果応報、自業…