信心決定。
阿弥陀仏の本願に対して、自分は、本願から漏れているのではないだろうか?
救われないのではないだろうか?
こんな、浅ましい心の自分では、到底、ダメだ。
はっきりしない。
わが身を当てにし、わが身の称える念仏の功徳を当てにする。
疑情、自力の心。
本願に対する、疑いがあるか、ないか。
喜んでいるとか、ないているとか、
そんなことは信心決定とは、何も関係ない。
追記)15/12/09 自分の感情、心の動き、わが身の浅ましさに、全く関係がない。
ひとえに、弥陀に全託するか、どうか。それだけだと体解している。
疑いがあるのか、ないのか。それだけだと感じている。
何の因縁か、不可思議のご縁を賜り、今生の解決をして頂いた。
もう後生のために、何かを求めたり、如来にお願いする心はない。
でも、わが我執の心は、煩悩具足のわが身は、依然として残っており、以前にも
まして、感じられる。
そして、厳然として、当てにならないものを信じ、裏切られ、
苦しむ人生を抱える人々がたくさんいる。
自分だけが安心してよいのだろうか?
もしそうだとしたら、
これは、仏道ではないと思う。
ご馳走は、みんなで食べないとおいしくないのだ。
一人で食べても、つまらないのだ。みなと食べるから、おいしいのだ。
みなが、安心しなければ、自分も安心すべきではない。
自分が安心するのであれば、みなが安心していなければならない。
智恵と慈悲は一如。不一不二。表裏一体。
これは、終着点ではなく、始発点だと味わう。
自己の我執が、どうなるかはわからないが、
真の菩薩がいるとしたら、十方世界に苦しむ人が一人でもいる限り、
心が休まらない、満足できない、ふとそう思った。
自分ひとりだけが満足、安心してはだめだ。
皆人が満足しなければ、
自分も本当の意味で安心することはできない。
自分はそう思う。
他の人のことは、まったくわからない。
これは偏に、個人的な味わいの問題である、ということを
一言、添えておく。