むなしさとともに

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ブログのきっかけ

ブログを書こうか、と思ったきっかけは、

『ある人』が亡くなったことだと思っている。

 

自分は、その方に直接お会いする機会はなかったが、

その方の書かれたブログを通して、よきひととの出逢いを頂いた。

 

その方の文章は、やわらかく、とげとげしくなく、

いろいろな心中があられたことと察するが、憎しみや悲しみも含めて、

今の自分がある、

という思いがあったのではないかと思う。

 

仏教という教えは、考え方、という低い次元のものではなく、

すべての人に関係する、これ以上重要なものはない、と個人的に思っている。

 

宗教、というと、日本人なら、きっと、嫌な、辛気臭い印象しか持たないだろう。

実際に、人の命がたくさん奪われた事件があった。

ある側面で、暴力や権力を自己にとって正当化するために、

他を排斥するために用いられているのも、事実である。

 

でも、単に、宗教とはなんだろう、と思ったとき、

それは何かを信じることだ、思っている。

 

人は、何かを信じなければ生きられない。わが身を。妻を。子どもを。

財産を。地位を。名誉を。家を。健康を。いのちそのものを。

明日が来ることを。

 

でも、それらに共通して云えることは、「無常」だということだ。

それらは、必ず消えうせてしまう。あるいは、わたしの命に、

寄り添ってくれる、本当に満足を与えてくれるものではない、私は、

そう思っている。

 

その中で、本当に信じるべきものは「何か」、

人はどう生きていけばいいか。

 

これに明確な答えを下さっているのが、『仏法』だと味わっている。

 

それぞれの方に、仏縁があるとか、ないとかは自分には何もわからない。

 

ただ、何もしないのか、というのもどうかと思う。

 

だから、拙い、しょうもない文章に、いくばくかの仏恩の思いを込めて、

日々の雑感とともに、残せれたらな、とそう思っている。

 

これを読んで下さった方が、少しでも、仏教に、歎異抄に、自分の心の動きに、

興味をもつ機縁になるのなら、これ以上に嬉しいことはない。

 

いつまで続けるかはわからないけど、まぁ、とぼとぼ書いていけたらな、

そう思っています。